2010年11月16日火曜日

贈り物

                                            Hamaca Loca (Tulum)


今朝のキーシンでこの原稿を思い出したので、転載します。



♦♦♦



今日、久しぶりに懐かしい人に会ってきた。 
彼女の名前はQZ. 

かれこれ15年前、R国際コンクールで受賞したバイオリン奏者で、現在はシンガポールの音楽学校で教える傍ら、年の半分を国外の演奏活動で過ごしている。 

そんな彼女に出会ったのは、R受賞後、日本で開催されたガラコンサートで来日した時だった。
青白い顔の痩せた少女で、いつも憂鬱そうな表情を湛え、他の受賞者が日本にやってきてはしゃいでいる時も、一人黙って過ごしていることが多かった。 

音楽事務所に入社して、それが初めての大きな仕事だった私は、ビザやホテルの用意から、練習ならびにツアーのアテンドと多くの時間を彼らと一緒に過ごした。私自身外国人相手に仕事をすることで緊張していたし、過密スケジュールにてんてこ舞いをしていたので、記憶がところどころ飛んでいる。 

だけどそんな中で、この少女と私が2人きりで過ごした記憶がいくつか残っている。 
一つ目は、地下鉄赤坂見附から市谷方面に向かって歩く道すがら、 
恐らく、あまりにも食が細い彼女に、どこか悪いところでもあるの?と聞いたのだと思う。口数の少ない彼女は小声でポツンとこう言った。 

"I have ulcer" 

そのulcer(オーサー)という言葉がわからない私は、彼女を送り届けた後、口の中でその音を繰り返しながら会社に戻り、辞書で"O(オー)"の欄を端から端まで探したが、結局その単語は見つからなかった。何か悪い病気なのだろうか?このオーサーとは何なのだろう?そう思い首を捻った。 

次の記憶は、練習からの帰り道。食欲がないのは、もしかしたら彼女がホームシックに罹っているせいもあるのではないかと思い、”何か食べたいものはない?”と聞いてみた。すると今回は少し顔をあげて 

" I want Bun" 

と言う。そうか、じゃ、Bunを探さなきゃ。でもBunってなんだろう?、そう思い歩を止めて、2人で必死で説明し合った結果(なんでそこまで必死になる必要があったのかわからないけど)それがどうやら”パンの一種”のことがわかったので、近くのパン屋に彼女を連れて行った。 

そんなことを繰り返しながらも、ツアーは無事に成功を収め、マスコミからの批評もまずまずで、彼女達はその成功を胸に、それぞれの場所へと旅立っていった。受賞した事実がある限り、演奏家としての可能性は限りなく開かれており、そんな彼女達は眩しく輝いていたし、関係者一同も、それを心から喜び、見送った後も、爽やかな余韻が残っていた。 

それからしばらく立ったある日、一枚の絵葉書が届いた。彼女からだった。 

”今演奏旅行でアフリカに来ています” 

相変わらず青白い顔に憂鬱そうな彼女の姿が、その文字から伺えた。 

それから何枚かの絵葉書が届いた後、音信は自然に途絶え、私はそれから辞めるまでの間、いくつかのツアーを常に抱え、旅から旅を繰り返すことになっていった。ウォークマンから流れる音楽を供に電車に日夜揺られながら、当時の心境はこうだった。 

”一つのところにずっと居れる、普通の仕事に変わりたい” 

           ** 

その後、たくさんの国の、たくさんの音楽家と出会い、別れていった。 

たくさんの良いことを人から学び、たくさんの不正がこの世にあるのだということも分かっていった。 

その後体を壊し、辞めることを余儀なくさせられ、心身ともにバランスを失って1年間のブランクを過ごした後、念願の”普通の仕事”に就いた。 

その”普通の仕事”はそれから何度か変わり、気が付けば、日本を離れてシンガポールで働くことになっていた。
相変わらず”普通の仕事”暮らしは続いていた。 

そんなある日、偶然にも、彼女がコンサートでシンガポールに来るのを知った。 
心臓がバクバク鳴るのを抑えられなかった。 

私が”普通の仕事”を次から次へと変えている間に、彼女はずっと音楽家としての道を歩み続け、そしてコンサートで招かれて、シンガポールにやってくるという。 
聞けば、現在では教える立場になって、演奏活動も精力的に続けているらしい。 
海外までやってきて、意にそぐわない仕事をし続けている自分と、彼女の間に大きな隔たりを感じた。が、迷った挙句、コンサート当日、一人で聞くことにした。 
彼女が元気で、今でも演奏しているのを垣間見たら、きっと自分も満足し、気が休まるだろう、そう願いつつ。 

ところが、彼女の演奏が始まった瞬間、なぜだろう、15年間封印されていた当時の記憶が、まるで走馬灯のように一コマ一コマ、非常に鮮明に蘇ってきたのだ。出会った人、交わした言葉、その時感じたこと等々・・。 

彼女の演奏は以前にも増して、安定感があって心に訴えてきて、また、演奏を聞きながら蘇ってきた数々の当時の苦い記憶も、今ではすべてが懐かしかった。 
涙が溢れてきて、どうしても、素晴らしいこの夜に御礼が言いたくなったので、演奏終了後に楽屋を訪れた。 

大勢の人が並んでそれぞれ、祝辞を述べていった。 
遂に私の番が回ってきたので、用意していた言葉を口にした。 

”もうお忘れだと思いますが、私は15年前に、あなたが日本に来たとき、当時のスタッフとして一部同行をさせて頂いたものです。 今晩の演奏が素晴らしかったので、一言御礼が言いたくて・・” 

”Kyoko!" 

突然、彼女の口から私の名前が出てきて、驚いた私の手を取りながら、全く落ち着いたままで彼女はこういった。 

”元気にしてたの?久しぶりね、来てくれてありがとう” 

15年の歳月が、まるでなかったかのような再会だった。 
今では結婚しているという。道理で、ふっくらとして幸せそうな筈だ。 

             ** 

あの時は、真っ直ぐでひたむきで、そして若かった。 

たくさんの楽しい思い出と同時に、公私もなく仕事に明け暮れ、一般の仕事をしていたら味会わなくて済むような苦い思いをすることが苦痛だった。それが嫌で、”普通”になろう、と心に決めたのだった。 

しかし、時が経った今、普通にだけしていたら起こらなかった感動が贈り物として届いたのだ。 

かようにして、人生って時として不思議なものだと思う。 



(2006年04月28日)

2 件のコメント:

  1. 普通になろうとしてもできない、かといって何が普通なんだろうと若い頃の私も悩んでいました。
    やっぱりフウテンのトラ子には難しすぎて、、、・
    Kyokoさんの人生はたくさんの感動であふれているようですね。

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  2. mama taponeさん:

    若い頃って色々と悩んだよね〜。
    私もしょっちゅう苦虫噛み潰すような顔して歩いてた気がするよ。

    今はもう開き直り!あはは。でもそれが一番。

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