2012年6月22日金曜日

私が今ここにいる理由





                                               Bora bora, Tahiti 

















時々、ふと思うことがある。

それは、「人は、自分をどのように見てるのだろう?」と言うこと。

例えば私がヨーロッパに住んでいる、と公言したとしよう。

そしたら、人々の私に対する心証は、なんとなく良いものかもしれない。




それは、私たちの脳裏には、ヨーロッパに対する既成概念みたいなものがあって(たとえ行ったことはないにしても)、それを背景に、その人を重ね合わせるのではないかと思う。ある人は、私の背後にエッフェル塔を思い浮かべるかも知れないし、ある人は、私が2階建てのバスに乗って、町を移動しているところを想像するかもしれない。


例えば私には、タヒチに仲の良い友達が住んでいて、私が彼女のことを考える時に、まず頭に浮かぶのは、濃い緑の山々だとか、青く深い海、そしてポリネシア人々の朗らかな笑顔で、そんな風景の中を、生き生きと、歩いている彼女の姿を想像しては、一人微笑むのである。


同様に、東京で働く友人のことを思い出す時、私には彼女が一人机に向かって、何かの書き物をしているところが思い浮かぶ。

それは彼女がいつの時代にも、常に仕事熱心であり、どんな状況下に置いても、徹夜も厭わずに仕事をしているところを、何度となく見たからであり、それは今の相方にも通じるところがある。

彼はスタジオにいる時は、常にあちこちへ動きながら、何かの作業に没頭しており、私が側で話している時も、その手を絶えず動かしている。なので、彼のことを思い浮かべる時、私には、彼が働いているところしか思い浮かばないのだ。


結局私たちは、自分の見ているその人から、何らかのイメージを構築し、その人物イコール、その場所なり、人物像なりのイメージと、記憶させているのかもしれない。


さて、そこで思うのが、我が身のこと。

どうして自分は、自身に対するイメージとはほど遠い、こんな辺境なところに住んでいるのか?

最初にお断りしたいのは、自分は特別にラテン音楽好きでもなければ、サルサ好きでもないということ。


晴天に突き抜けるようなラテン音楽は、元来、頭痛持ちの私には、少し刺激が強すぎるし、踊りも、一時は友人に誘われて、ポールダンスまで習いにいったが、自分には全く不似合いであった。


毎日家で作る食事は日本食にて、基本的にはアジアLOVE。

映画も食事もアジア系好みで、時間があれば、ヨガに通ったり、インドの瞑想曲を掛けたり、旅関連の本を読んだりと、ラテンとは、まるで関連性のない生活をしているし、未だに、この国の料理をはじめ、現地人の暮らしぶりも、よく行われているフィエスタや、宗教行事も、ほとんどわからない。


そして、自分はここで何をしているんだろう、と時として、不思議に思うのである。



ちなみに、ここに住んでいる日本人をつぶさに観察していると、彼らがここに住んでいる理由はだいたい、次のように分けられる。


1.大学時代、スペイン語専攻だった。本当はスペインで仕事がしたかったが、ビザの関係で、メキシコまで流れてきた。

2.カナダ(もしくはアメリカ)に留学中、現在のパートナーと出会って、そのまま移ってきた。

3.サルサがとにかく好き。

4.バックパックで旅行しているうち、なんとなく居着いてしまった。

5.駐在員として来て、そのまま在留。

6.カリブの海に魅せられて。


彼らが、どこまで地元に溶け込んでいるのかは謎だけど、感性の異なる人々の中に混じって生活するのは、一筋縄ではないと思うし、よっぽど好きでなければやっていけないと思う。ましてや、それが地球の裏側ともなれば尚更だ。


私は融通も利かないし、上のどれに該当する訳でもない。
更には、自分から志願してここまで来た訳のでもないので、余計に宙ぶらりんな感じがするのかもしれない。


そんな訳なので、たまに、仲良しの友達の主催する太極拳のクラスを覗きに行った後、二人揃って、アジアンカフェに出没する。

そして、アジアンチックなちゃぶ台を囲んで胡座をかきながら、”なんかここ、バリっぽいよね〜。”などと言い合い、海を見ながらまったりと午後を過ごしていると、自分がどこにいるのかさえ忘れてしまう。


ちなみに、彼女も私も、メキシコで骨を埋める予定は、今のところ、ない。


仕事上で諍いが起きた時、周りの人々は、大抵の場合、こういう言い方をする。

”まぁ、メキシコだからね〜。”


しかし、別のまたある時、彼らに、将来の予定を尋ねてみると、その答えは、メキシコ中部の、とあるアートの町に引退することだったり、山に囲まれた小さな少数民族の町にカフェを出すことだったりする。


意外にも、隣国のグアテマラや、他のラテン国の名前が出てこないのも、面白いといえば面白い。

思うに、やはり彼らはメキシコが好きなのだ。



もし選べるチャンスがあるのなら、私は次は、全く違うどこかに行きたいと思っている。
せっかくここまで来たのだから、中南米(メキシコは、北米の一部です。念のため。)を一度は回りたい、と当初は思ったけれど、今はそんな予算があったら、全く違う文化圏に行きたい。

便利で、豊かで、雨漏りがしなくて、自然が豊かなところで・・

え、それ日本だよって?

ははは、そうかも知れません。

けれど、今のところは、まだ外側で充分です。


先の友人曰く、我々の魂は色々と探求したい魂なのだそうな。






(続く)


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2012年6月17日日曜日

時を超えて










ミャンマーのことを良く知らない人でも、アウン・サン・スー・チーの名前を聞いた事のある人は多いと思う。 

ビルマの独立運動を主導しながらも、その達成を目前にして暗殺された、アウンサン将軍の娘。 

彼女のその絶大なる人気は、親譲りの聡明さもさることながら、その凛とした、竹のようにしなやかに美しい容姿も、多いに関係するし、日本で彼女のファンが多いのも、このせいではないかと私は密かに思っている。 



私が彼女を知ったのは、もう20年近く前のこと。最初に自宅に軟禁されたことが、報道されたのがきっかけだったと思う。 

軟禁という言葉を初めて聞き、その意味が実際のところどういうことを意味するのか、また、国連を始めとする諸団体は、これに対して何ら対処することが出来ないものなのか、と訝しく思いもした。 



次に衝撃を受けたのが、それから10年後の1999年。自らの夫が病気のため、死に瀕しているにも拘らず、彼女はその最期を看取ることを許されなかった。 
一体、この軍事政権とは、どういう冷酷非道なものなのか。 
憤りと共に、同じ人間としての神経を疑った。 



それから5年後の2004年。 
私は当時、シンガポールで働いていて、転職することをきっかけに、長い間夢見て来た、東南アジア一帯を旅して回ることにした。 
ミャンマーは、その最初の目的地であった。 



正直言って、入国する前はかなり緊張もしたし、なんとも重い気持ちがあった。 
21世紀に入っても、未だ開かれぬ、軍事政権の国。 
そして、アウン・サン・スー・チーが今も軟禁される国、ミャンマー。 

この国で、闇雲にお金を使うのはやめようと心に誓った。 
お金を消費することが、国の繁栄につながり、それが軍事政権を益々増長させることになってはいけない、と。 



ところが、そんな重苦しい思いを持って訪れた彼の地の印象は、空港に降り立って、ヤンゴンの町並みに差し掛かると共に吹っ飛んだ。 

町には、小田急バスや地方都市バスなど、日本の中古バスが、あちこち走っていて、それが私の幼少時代に見た原風景とオーバーラップして、郷愁さえ覚えたのである。 

不意をつかれる、とはあのことだと思う。 



緊張していた心身に、その光景はかなり衝撃的で、実際、町に降り立って歩いてみて、その雑多な賑わいが、タイにもマレーシアにも似た、南国独特のものであることを嗅ぎ取った時、国の状態は如何なれども、国民とは何の関係もないことに初めて気がついた。 

実際そこから始まって、マンダレー、バガンと旅を続ける道中、そこで出会った人々は、私が10代後半から旅を初め、出会った人々の中で、最も純真無垢かつ、心の綺麗な人々だった。



皮肉な事に、軍事政権によって、入ってくる情報や物資が限られたことにより、彼らが他の東南アジアの観光地のように、「人擦れ」することを防いだのである。 

それは、まるで鎖国時代の日本を見ているようでもあり、実際、彼らと話をする中で、彼らが非常に日本人の特質に似ていることにも気がついた。 

彼らは内気で寡黙であると共に、忍耐強く、時には激しく、その笑顔は非常に美しい。 


そしてその裏腹に、彼らは厳しい環境で生きねばならぬことを強いられている。 



政治について語ることを禁じられ、 軍政について悪く行ったものは、ことごとく特高に検挙され、収容所に入れられるビルマ人。 
マンダレーの丘で私の目を奪ったものは、その丘から見る美しい夕日ではなく、その麓にそびえ立つ、異様に近代的かつ巨大な収容所であった。 


私を案内してくれたガイドは、私の質問に一瞬顔を歪ませ、会話として成り立たないままに、それは夕暮れと共に掻き消されてしまった。 


メールをチェックするために立ち寄った町のインターネットカフェで見たものは、「このサイトは軍事政権により、閲覧することを禁止する。」と書かれた真っ赤な警告であった。 
ホットメールを開こうとしても、ヤフーを開いても、ウィキペディアもここでは見る事が出来なかった。 


画面を前に、ここは一体、何をするところなのだろう?と一人苦笑した。 


そんな苦境の中に生きてきた彼らが、そしてそれを見守る私たちが、時を経て、これから先どこへ向かうのか。


それは紛れもなく、私たち一人一人の手に掛かっているということを、彼女は身を持って実証してくれたのかもしれない。



                   ※※



アウン・サン・スー・チーさん、21年後のノーベル平和賞受賞演説より。



「平和を手に入れることは可能です。それを真に望み、将来への希望を失わなければ。
強くありましょう。そして決して諦めてはなりません。」








 .

2012年6月7日木曜日

海の物語 最終回





                                                                                      Wave / Clark Little






いい女とのは、性根座った逞しい女性のと、


血まみれで見るもな状況った私顔色一つ変えず並んパドルをしながら、私をまで誘導してれたさやかちゃん。


女は底抜けに明るくて、く、回転い、ムーーだった。


しゃべりで、おちゃらけてて、そして彼女のバックグランドには、水泳とい確固たる実績があった。


だからこそ、私が瀕死の状でいても、そんなこと、ってことないってい感じで、最後まで気丈振舞ってくれたし、頭に包帯いてってた後も、ってえてくれた。



日中は、アシスタト業務追われ、もなかったけれど、部屋まらった関係で、に話す内容が、とても印象的だったっちゃん。


彼女は宮崎といフィンでは有名なポイントに、ある日して、荷物をまとんだそだ。


現地修行重ねらく いいところまで行ったのだろなる修行のに、ーストラアにリでやってきて、プロ目指すべきか、それともアアとしてまるべきかんでいる様子であった。



師匠となり、当にてききと、いていた。



最後に師匠。


これは、帰るったのだが、彼女は本当は、非常だったのである。

合宿中はそんなことは知るもなかったし、言葉なく、そしてシャープで、ただただ、黙々日練習を重ねていた。


よりもき、ストッチをして、真剣そのものでる。
ってて、今度目のストレッチをし、少しんだ後は、後から私たちのレッスンをしながらばす。


その合間に、ード工場れていってくれたり、い物に連れていってくれたりと、しかったけれど、一番興味深かったのは、色んな人が、彼女を入れわりわり、れて来たことである。


それは、まだ年幅の行かないの子だったり、プロのボィボーーの女性だったり、現地に住んでいる日本人女性だったりした。


けれど、こんなにもくの人が、彼女をってやってくるのは、やはり、一つの頑張けている、彼女の人ならなかった。


訪れる人は、一様に健康的で、誰もがいいエネーをっていて、そんな彼女らの話をくのは、本当に楽しかった。


運動じて来るコミニティといのは、こんなにの深いものなのだと、私はただ目をくするばかりだった。



怪我をしたお陰で、実は思い掛けないオマケもあった。


海にはしばらく入れないことになったので、師匠に申し出て、一人思い立って、バイロンベイに出掛けたのだ。


ニコルがその昔入っていた、イルカの遊びに来るビーチ。


合宿所のあるあたりは、人も多く、どこかピンと張った空気が漂っているけれど、数時間後に降り立ったバイロンベイは、それとは真逆の、どこか気の抜けた、リラックスムードの漂う小さな町だった。


歩いて回るには、ちょうど手頃な大きさで、手作りの可愛い小物を置いた店や、古びた味のある本屋さんを冷やかしているうちに、ふと、こんなところに、しばらく住んだら楽しいだろうなぁ、といつもの放浪癖がムクムクと顔を出してきた。


しかしその後、日本人の男の子2人組と街角で出くわして、連れ立ってポイントに向かい、記録係として、彼らの波に乗る姿をカメラで追っているうちに、急に、地元の仲間のことが、頭に思い浮かんで来た。


“雨期も終わって、今頃みんな、何をしてるんだろうなぁ・・”


一旦そう考え出すと、彼らと過ごした時間が、次々と思い出されてきて、なんだか無性に恋しくなった。


波も、パワーもさして大きくはないけれど、私に取ってのホームビーチは、やっぱりマレーシアだったのである。


私のサーフィンは、それを分け合った仲間と、その特有の穏やかな波で作られていたものに他ならないと、目の前で綺麗にうねる波を前にして、はじめてそれに気付いたのだった。


なんてことはない、私は初めから、すべてを手の中に持っていたのだ。



いつだったか、あとから赴任してきた、ボディボード時代からの地人が、サーフィンに転向したと告げた私に、”それだったら、これを読むといいよ。”と言って、一の本を手渡してくれた。


そこにはサーフィンをしながら、世界を旅する人の話がせられていて、私は、吸い込まれるようにその本に魅了された。そこには、私がずっと見ていたような暮らしぶりが描かれていて、読んでいるうちに胸が高鳴り、以来それは、私のバイブルとなっている。


そのに会った時、友人には、”んとはね、ずっとサーフィンをやりたかったのよ。”と告白した。


すると、彼は一言、こう言ったのだ。
”やりたいことを、やればいいんだよ。”と。




、やりたいことを、素直にやってみればいいのだ。
大切なのは、最初の一歩で、続きはあとから付いて来る。



そして、一旦流れに乗ったらリラックスして、あとは、波が連れていってくれる方向に身を任せればいい。

巻かれたら、体の力を抜いて海面に浮き(自然にそうなる)、あははと笑ってすませればいい。




                 ※※






この物こうと思ったのは、あるイルカの真を見て、自分がその昔体験した、宝石のよに美しい光景明にってきて、それを他の人に、話してみたくなったからである。



自然はいつも私たちの友で、先生で、私たちを大きく包み込み、かに見ってくれる。


迷った時、けそな時、私は自の中に身をねる。

海のを聞き、潮風にあたり、カメが飛様子をめていると、と我にに帰り、そして思


心が信じる方にんで行こ、と。



分かれ道を目の前にして、躊躇したり、足踏みしている人を見ると、私は近寄っていって、そっときたくなる。


”大丈。私だってやってみれたんだもの。取りあえず、行ってみればいいじゃない。”と。



この先のことは、誰にもわからない。


わかっているのは、道は、いつも後から付いてくる、といことだけ。



それはまるで、草むらの中をき分けて進んだあとに残った、小さな道のよに。


自分にしかわからない道。けれど、細く長く伸びる道。








わり


2012年6月3日日曜日

暗がりの中で見えてくるもの




                                                 Un campo de Campodia 




ずっと昔、まだ私が中学生だった頃のこと。 



夏場の部活を終えて家路に急ぐと、いつもは遠くから見える家の明かりが全て消され、あたりは田んぼで


外套も殆どないものだから、一体どうしたのだろうか?と不審に思ったことがある。 



真っ暗闇の中、自転車を降りて、オズオズと玄関に近づくと、地面から、 



”おかえり” 


と突然母の声がする。 




仰天して、 



”どうしたの?真っ暗じゃない?” 



と声のする方に向かって話すと、寝袋に入り、玄関近くに寝転がっていていた彼女は、そこから顔だけ出して、 



”今日はね、星が綺麗に見える日なのよ。あなたもちょっと見てごらんよ。”と言う。 




山登りが好きだったせいか、彼女は時折、こういう突拍子もないことをする。 




仕方がないので、彼女の脇に、セーラー服のまま、しゃがみこんだのだが、当時は周りを田んぼで囲まれて、



家らしき建物も殆どなかったせいか、明かりの消された星空には、私が想像した以上に美しい夜空が広がっていて、



チカチカと瞬くその星達に、私は、母と2人並んで、しばし、夢の世界の住人となった。 





遠い昔の、今は亡き母との美しい思い出の一コマである。




                        ** 

                          
  

もう一つの思い出は、初めて行った、沖縄での出来事だ。 



彼これ、20年数年前のことになる。 



北米を放浪した後、東京に戻ってはみたものの、なかなか感覚を戻すことが出来ずにいた私を待っていたかのように、


沖縄の友人が私を誘ってくれ、夏を待たずして、2人して、久米島を訪れた。


 
何もない、長閑な島だった。 


彼女がダイビングを楽しんでいる間、私は一人、自転車を借り、行き先も決めずに、その辺りを見て回った。 



山の中を走り、下り道を降り、サトウキビ畑が一面に広がる畑の間の急勾配を疾走していたら、ふと、

 
”そういえば、ここらでは蛍は見えないのかしら?”という疑問が沸いて来た。 


夕食時、早速テーブルについてくれた、私達よりも少し若めのウェイトレスの女の子に、 


”このへんで、蛍が見えるところがあったら教えてもらえませんか?” と尋ねると、彼女は、 


”ここらは看板もなくて、口で説明するのも難しいから、仕事が終わったら車で見にいって、もしいたら、


お知らせします。” 



と言ってくれたので、御礼を言い、部屋で待つことにした。 


その後しばらく待ったが、終ぞ連絡はこない。 


友人は昼間の疲れからか、先に静かな寝息を上げだした。 


仕方ないな、と、ベッドに寝転んで、見るともなく天井を眺めていたら、”コンコン”と、ドアを小さくノックする

音がする。 



開けると、果たしてそこには例の女の子と、その子の彼氏らしき男の子が2人して立っていて、手には梅酒を

漬けるような、葉っぱの入った大きなビンを携えている。 




上気した顔で、彼女は”すみません、遅くなってしまって。”と切り出した。 


”行ってはみたものの、思った以上に足元が悪くて、とてもお二人が来れるようなところではなかったので、

少しだけですが 、取ってきました。” 

そういって、彼女はビンを差し出した。 



何の気なしに、場所を聞いただけなのに、まさか、こんなに遅くまで掛かって、取ってくれているなど、

こちらは想像もしていなかったので、びっくりして、 


”どうぞ、中に入って。” 



と再三誘ったが、彼女達はあくまでも遠慮がちに、 



”また、明日早いので。”と、会釈をしながら帰っていった。 


一連のやりとりに、一旦は起きた友人に、”蛍が届いたよ。”と言ってはみたが、半分寝ぼけたままの彼女は

相槌を打って、また寝入ってしまったので、窓を開け、明かりを消し、しばらくビンに入った蛍をそっと眺めた後、

蓋を取ると、そこから、上空に向かって飛んだ蛍たちは、チラチラと光を放ちながら、あるものは天井に止まり、

あるものは飛びながら、光を放ち続けるのだった。 



その微かな光は、あの若いカップルのように、透明で美しく、そしてどこか儚げだった。 



明かりを消した部屋の外では、月光が優しく大地を照らし、緑の香りが、内地よりも一歩早く訪れた初夏を思わせ、

風が微かに吹いて木々を揺らし、私という、一人きりの観客を前に、いつまでもその光で楽しませてくれた。 



初めての、そして忘れられない沖縄の思い出である。 




                
                    ** 





今年も6月21日(木)夜8時より、キャンドルナイトが実施されるようです。 


詳細はこちら。 

http://www.candle-night.org/jp/2012/


明かりを消すことで、見えてくるものもあると思います。

どうぞ皆様、ご参加ください。



子供たちの未来が、どうか、明るいものとなりますように!