2012年1月21日土曜日

一瞬の出来事・3




翌朝目を覚まして窓の外を見やると、どんよりとした雲が空一面に広がってはいたものの、雨は止んでいた。

私は日の出と共に表に出て、車の様子を伺ってみた。

予想とは裏腹に、エンジンは問題なく掛かったが、鍵を抜いても、依然としてファンが回り続けている。

だいぶ水を飲んだのだろう。アメリカに滞在中の相棒に連絡を取ると、このままだとバッテリーが上がってしまうので、一旦どこそこを切った方がいいという。

その”どこそこ”がわからなかったので、エンジン音を聞いて出てきたペドロに、代わりやってもらう。

次に車内の清掃を始める。

だいたい、車体を掃除することはあっても、車内をバシャバシャと掃除するなんて見た事もなければ、やることも始めてだ。

すでに濡れているのだから今更、洗ってはいけないなんて言えた義理ではないが、何とも不思議な感覚である。

だいたい、綺麗に洗いきったところで、車内が完全に乾くことなんてあり得るのだろうか?

些か疑問には思いつつも、下水まじりの泥水を落とさなくては話にならないので、覚悟を決め、何度も何度も水を掛けては、ありったけの洗剤でゴシゴシ擦る。

こちら側は私、反対側はペドロが担当し、二人で無言でゴシゴシと擦る。



朝早い日曜日の下町の風景は、人もまばらで、空を覆う暗雲を除けば、いつもと代わらぬ風景である。

この様子でいけば、昼過ぎには太陽が顔を出すであろう。まるで何事もなかったかのように。




あの時、車内には、みるみるうちに水が入ってきて、自分の目を疑う間もなく、水嵩はどんどんと増して行った。

そして、そんな私に出来ることと言えば、前へ前へと進むことだけだった。

果たして私はラッキーだった。

何故なら、途中で座礁こそすれ、荷物を取り出してドアを蹴り開け、自分の力で家まで戻ることが出来たから。

けれど失ったものも少なからずあった。

まずはコンピューター。

その朝、とある画像を生徒に見せようと、普段は持ち歩かないコンピューターを私は持参した。そして、まんまと水に浸かってしまったMACは、当然のことながら、二度と立ち上がることはなかった。

それからその中に入っているデータ。

思い出の写真の数々を初め、2年前から、自分なりに研究して集めた日本語学習のデータをだ失うのは、後悔してもし尽くせなかった。

コンピュータを斜めにして、泥水が地面を打った時には、絶望感と共に、やり場のない怒りで胸がいっぱいになった。

前回の雨の被害で、私は大切にしていた、自分に取っては唯一の高額品、ニコンのカメラを湿気で失った。
そして、今回はコンピューターと車の修理代。

併せて見積もっても、ざっと約25万。こちらの貨幣価値に換算すると、ざっと半年分の出費となる。

なんで今日に限ってコンピューターなど持って行ったのだろう?

だいたい、おしゃべりばかりして、まともに授業も聞かない生徒に、勝手な自己満足で授業などしている自分が甘かったのではないか?

あの時、どうして寄り道なんてしたんだろう?
まっすぐに家に帰ればこんなことにはならなかっただろうに。

どうして私はいつも通り、広場を突っ切って帰らなかったのだろう?

なぜ、私はこんな貧民街に住んでいるのだろう?

そして、どうしてこんな時に限って、相棒は出掛けていないのだろう?


もう辞めよう。学校もメキシコも。

なんでこんな思いばかりしなくてはいけないのだ?

私が一体何をしたというのだ!


けれど、どんなに嘆き悲しめども、失ったものが帰って来るわけではないこともわかっていた。

ずぶ濡れのまま家の鍵を開けて中に入ると、ドアのすぐ脇の靴箱の上に置いている母の写真が最初に視界に入った。

まるで写真の中の彼女が、私に笑いかけているように見えた。







津波が起こったとき、私と同様、車に乗っていて被災された方は多かったのではないかと思う。車に水が入ってきて、あっと言う間に濁流に飲まれた方もたくさんいらっしゃっただろう。

本当に一瞬の出来事だったと思う。自分の体験がそうであったように。

そしてその一瞬のうちに亡くなってしまった方々が、私たちの国に、大勢いた。


多くを失ってしまった方もたくさんいる。

一瞬の、そう。本当に一瞬にして家を、家族を、一生を掛けて築いたものを失ってしまった方々。

その方々の気持ちは、我々がとても想像しきれる範囲のものではない。


そしてこれから先、私たちが望もうと望むまいと、災害は起き続けるのである。

確実にまたどこかで。



執着は駄目なのだと思う。これからの時代。

打たれても打たれても、また起き上がらなければならない。

そして、解き放たなければならない。悔恨を、怒りを、悲しみを。

それが出来るようになった時、私たちの心の中には、また小さな灯が灯り、次元を超え、生き続ける事ができるようになるのかもしれない。


昨年より続けて身の回りに起きる水害の中に、なにかのメッセージが隠されているように思い、今回敢えて公開させてもらうことにしました。



今日のカンクンの天気は快晴。

私は明日の授業に向け、準備を進めている。





(終)


2012年1月20日金曜日

一瞬の出来事・2



荷物を急ぎ自宅に置いた私は、その足で階下に降り、いつも寝てばかりで仕事もしていない、ぐうたらペドロを呼んだ。

”ペドロ、緊急事態発生。早く起きて!”

どうしたんだと部屋から出てきた彼に、私は手早く説明する。

”向こうの角で、車が止まってしまって、動かなくなったの。早く移動させないと水没してしまうから、一緒にきて車を押して。”

”わかった。”

私がずぶ濡れの状態だったので、事の重大さを察したのだろう。
ペドロは取るものも取りあえず、私の後を付いてきた。

次に、私はいつも買い物をする角の店に飛び込んだ。
”車がむこうの角で止まってしまって、助けが必要なの。一緒にきて手伝って。”

店には主(あるじ)をはじめ、息子、奥さんがいたが、私の車が水に浮いているのを見ると、皆無言で、店の中に入ってしまった。

いつも、笑顔で挨拶してくれる愛想の良い主だけに、ショックではあったけど、助けてくれないものはどうしようもない。誰しも、トラブルとは関わりたくないのだ。

私とペドロ2人ではどうしようもないことはわかっていた。

けれど、あのまま車を放置していたら、車の中は完璧に水没し、使いものにならなくなるかもしれない。

私は先ほど戻ってきた水溜まりの中を、ザブザブと戻って行った。
ペドロは履いていたスリッパを脱ぎ、おぼつかない様子で、私の大分後から付いて来る。

その時前方に、水浸しの道路を閉鎖しようと、周辺住民の一人が、ロープを片手に出てきた。ロープの真ん中には赤い小さな旗が括り付けられている。

これまで何度となく浸水する度に、彼らは自らの手で、道路を閉開してきたのだろう。

行政は、この貧困地区には目もくれないし、車が通る度に巻き起こす波で、周辺の家の中には水が入ってくる。

そして、それを止めるためには、誰かがこうやって自分の手でなんとかしなければならないのだ。

私は彼に近づくと、車を動かしたいから手伝って欲しいと告げ、そのまま前進してやっとのことで車のところまで辿り着いた。

ペドロは遠く離れたところで、それでもこちらを目指して歩いて来ている。

まずは一人で車を押してみた。
けれど、もちろん濁流に飲み込まれた車は、びくともしない。
それから何度か車を押すけれど、うんともすんとも言う気配がない。

先ほど支援を頼んだ周辺住人は姿が見えなくなってしまった。

だめだ、ペドロと2人ではどうしようもならない。

私は渾身の力を込めて、再び叫んだ。

”Ayudame!(助けて)”

けれども、降りしきる雨の中、私の声はどこにも届かなかった。

すぐ近くの洗濯物やの奥から、ちらりと人の陰が覗いたが、決して手を貸してはくれなかった。それもそのはず、濁流はすでに腰丈まで上がっていた。

絶望感に打ちひしがれていると、その時、息を弾ませながらペドロが到着した。
私が、一緒に車を押すように指示すると、いつもは箸にも棒にも引っかからない彼が、こういうではないか。

”kyoko、この車は何かの上に乗り上げてしまってる。だから後ろから押してもだめだ。前から押すか、持ち上げて移動しないと。”

しかし、私と彼だけでは、前にも後ろにも動かすことは出来なかった。
絶体絶命か・・そう思った次の瞬間、先ほどの周辺住人が再び通りに姿を現した。

急ぎ手招きし、3人で車を押してみるも、やはり動く気配がない。

頭の中が真っ白になりながら、それでもペドロに言われるがまま、助手席に座り、エンジンを掛けると、なんとかエンジンは掛かった。それを2人で押すのだが、已然反応なし。と、そこに大きなダンプが水を掻き分けながらながらゆっくりと向かってきた。

さすがダンプだけあって、この水位はなんてことないらしい。高い車体の助手席から私たちを見下ろしながら近づいてきたが、周辺住人が何やらスペイン語で叫ぶと、彼らは濡れることも厭わず、さっとトラックから降りると、輪の中に加わった。

”それ1、2、3”

”もう一つ、1、2、3!”


またしてもペドロが戻ってきた。

”Kyoko、ギアを入れて!”

混乱のあまり、エンジンはかかったものの、ギアを入れる事をすっかり忘れていたのだ。

そしてギアを入れた瞬間、車はすーっと動きだし、私はエンジンが掛かったことを幸いに、ゆっくりと水の中を前進した。運転しているんだか、水の中に浮いてるんだかわからない感覚。

それでも、1ブロック、2ブロックと前進する度に水位は下がって行き、私の住むブロックのところまで来ると、水は殆ど捌け、代わって、私の車の中の泥水が雨水に混じって通りに流れていった。

家の前まで辿り着いた私は、戻ってきたペドロと共に、休む間もなく、今度は車内の泥水を必死に掬った。

ペドロは繰り返し、こう呟いた。

”あぁ、こんなことになってしまって。Im so sorry, Kyoko(言葉が出ないよ)”

私は降りしきる雨の中、黙って泥水を掬い続けた。

(続く)

2012年1月18日水曜日

一瞬の出来事





私の住むこの地域は、青い空に太陽が照りつけるかと思えば、急に大粒の雨が降り出して、バケツをひっくり返したような状態になる気候柄である。


そして、一旦大雨に見舞われると、町中が水浸しになり、至る所で洪水が巻き起こってしまう。


洪水なんて、普通の人に言ってもピンとこないと思うけど、道が水で溢れ、ふくらはぎ、膝丈くらいは簡単になり、至る所で支障が起きる。


当然、車を運転している我々にも試練が与えられる。突如水嵩が増えた道路を、突進して行かなければならないのだが、それが予期せぬところから急に起こるものだから、ハンドルは切りにくくなり、フィルターやら何やら、警告マークとして作られているもの全てが点滅し初め、終いには、白いスモークが車内を煙らせる。そんな中、道の脇(時として真ん中)を、動かなくなって立ち往生している車が道を塞ぐという始末。


これが日本だったら、”行政は何をやってるんだ?”ということで、すぐに水はけを良くする為の工事が行われそうだけど、残念ながら、今私が住んでいるのは、そんなインフラの整った母国とは遠く離れた国である。


雨が降る度に、道は水で溢れ、道のすぐ脇に住む家の人の家は浸水し、交通は麻痺し、要するに進歩もへったくれもないのである。


それでも、私は今までラッキーであった。毎回泥水の中を、”ルイス(車の名前)、頑張れ!”と励ましながら、なんとか乗り切り、家に辿り着く1本道が溢れ返っていれば、手前で曲がって、近くの、通常は広場として使われている空間を無理矢理突き抜けて、家まで辿り着いていた。


が、そんな幸運も尽きる時がついにきた。


いつものように、土曜の朝早く、日本語のクラスに出かけ、用事を済ませて帰ろうとしたところで、突如大雨が降り出したことには気付いていたが、その日、私は連日の疲れで、一刻も早く家に帰りたかったのである。


横殴りの雨の降りしきる中、いつも水嵩の増す大通りを走っていると、案の定、ある地点からハンドルが切りにくくなり、いつもに増して水嵩が多いことには気付いたが、それでも引き返すことなく、前進し続けた。


通りにはいつも通り、何台もの車が立ち往生し、それを横目になんとか集落の入り口まで辿り着いたところまでは良かった。


が、その後、自宅へ帰る魔の一本道を入ったところで、事態は急変した。


午前中、室内にいたせいで気付かなかったけど、降雨量はかなりのものだったのである。
前進しようとすれども、思うように進まず、まずいなと往生するうちに、はっと気がつくと、車内に、泥水がすごい勢いで浸水してくるではないか。


もうこうなると、あとには引き戻せない。必死に前進しようと頑張ってアクセルを踏んでいたのだが、最後の曲がり角のところでハンドルがうまく切れずに大きな岩に乗り入れてしまい、ガガガ、と大きな音を立て、車は遂に、うんとも寸とも言わなくなってしまった。


私はそれでも必死にエンジンをかけ直そうとするのだが、それは無駄な抵抗というものであった。
水圧が、膝丈を超えたところで、私は後ろに積んでいた教材道具を瞬間的にたぐり寄せると、バンザイ状態で持ち、外に出ようとするのだが、今度は水圧でドアが開かない。


こういう時、人の火事場の馬鹿力とはすごいものだと思う。


私は荷物を頭上に持ったまま、渾身の力を込めてドアを蹴り開けて外に出て、胸元まである水位の中を、何度も転けそうになりながら、ザブザブと家まで辿り着いた。




(続く)























2012年1月9日月曜日

迷信

                                             High school reunion (Oita, Japan)


(開けましておめでとうございます!)
皆様におかれましては、如何お過ごしでしょうか?

私はどうやら今年は、最初の一文を言ってはいけないということらしく、新年早々、友人宅に電話した時に、思いっきりこの言葉を発して、叔母にこっぴどく叱られたのですが、やはりこれを言わないことには調子が出ないので、括弧書きで。(笑)

ちなみに、神社に初詣にも行ってはいけないという事実も知らず、もうちょっとで、餅拾いに行こうとしたところ、友人の発言で行ってはいけないこと を初めて知ったという・・。1周り以上年下のいとこに、”こういう風習あるの知ってた?”と聞いたら、”うん、そうらしいね。”とあっさり言われ、自分の 無知さを思い知った今日この頃です。

ちなみに神社に行ってはいけない理由としては、喪中は神社に取って、”穢れ”に当たるものなので、ということらしいのですが、そこでふと思い出したのが、神社が実家の友人I。

彼女の家が喪中だった時には、一体、どうしたんだろう?何か特別なお祓い等してもらうのかなと思ったのですが、彼女曰く、そういう場合は(家業なので)やってもいいとのこと。ふーむ。

しきたり、と言えば、厄年。
その昔、父方の信奉する浄土宗のお寺の本山にて、年越しに、アルバイトしたことがありました。

で、お正月、厄払いに来る人がたくさんいたので、疑問に思い、そこにいた一番偉そうなお坊さんに尋ねてみました。

(私)厄年っていうけれど、本当にその年には、厄介なことが起きるんですか?
(坊)そうだねぇ、お祓いして清めた方がいいねぇ。
(私)えっ?!本当ですか?
(坊)はっはっは。冗談だよ。昔は厄年が年齢の変わり目と言われて、体に用心した方がいいということで、言い始めたんだよ。
(私)じゃ、やっぱりお祓いした方がいいってこと?
(坊)そうだねぇ、気になるんだったらした方がいいけど、でも、気の持ち様だよ!

なんだかわかるようなわからないような・・
あと、真偽性を問う迷信も、多い国ですよね、日本というところは。

夜に爪を切ってはいけない
夜に口笛吹くべからず
丙午の女は男を食い殺す etc..

どれも、根拠があるようでないようで、けれど、なんとなく気になってしまいすよね。

・・と話しが逸れてしまいましたが、今年も自分の国の文化について、もっと勉強したいと思っています。

今年もどうぞよろしくお願い致します。
皆様に取って、素晴らしき1年となりますように!