2013年11月30日土曜日

二人のNIKKEI







シェーナはハワイ生まれの4世。

両親は二人とも日系で、彼女が生まれる前にオレゴンから移住して来た。

片言の日本語を話し、一緒に居ると、色んな場面でケンソンする。



タイソンは、シアトル生まれの4世。

お父さんはアイルランド人で、お母さんは日系3世。

日本語で知っているのは、「ヨイショ」の一言。

おばあちゃんがよく言ってたそうだ。







瞑想のコースで一緒になって、全部で60人もの参加者がいたにも拘らず、

終わったら、瞬く間に仲良くなった。

二人とも、少しだけはにかみ屋で、人に合わせたり、譲ることを血で知っている。



シェーナは、コツコツと貯めたお金で、世界一周45カ国を回った後、今は女一人、自分の家を建設中だ。


瞑想コースの手伝いで、作業が遅れているというので、数日だけ、果物の木を植える作業を手伝った。


3世のお母さんと4世のシェーナと私。

汗水垂らして、黙々と働いた。



コミュニケーションは英語。

けれど、みんな日系で、みんな同じ顔かたち。


3人で地べたに座って、お昼を一緒に食べた。

お母さんお手製のお弁当には、ご飯がたくさん詰められていた。





タイソンは、フラメンコギターを学ぶ為、長い事スペインに住んでいた。

ハーフだけど、日本人には見えにくい。

スペイン語を喋っている感じは、どちらかというと、ラテンかアラブの血が混じっているように見える。

だが、瞑想の時間になると、彼の姿は一変する。


背筋をすっと伸ばし、映画に出て来るサムライのように、凛として動かない。


他の殆どの生徒が、1時間もすれば、我慢出来ずに足を崩したり、モジモジしている間
も、彼は、最も経験の長い瞑想者として、一番前の席に座り、そこだけ、明らかに違う
空気が漂っていた。


シェーナに紹介されて、世間話をする中で、目の前の彼が、あの瞑想の達人であることがわかって、本当に驚いた。


更には、「実は僕、半分日本人なんだ」という言葉を聞いて、何も知らずに声を掛けたシェーナが今度は、唖然とした。


忘れてしまうくらいに何度も、今まで瞑想コースに参加したという。



シェーナもその昔、エクアドルに住んでいたので、スペイン語が堪能な二人は、殊更気が合った。



私が、おじいちゃんとおばあちゃんの馴れ初めを聞くと、同時に、

「収容所で、出会ったんだよ。」と言って、お互い顔を見合わせた。



私達、日本人の知らない世界。


戦争に負けて、長い間、収容所に捕虜として、辛い生活を強いられたその中で、運命の出会いをした二人。


二人が出会った瞬間、それはどんなだったのだろう?



私達の想像を上回る、強い強い絆、そして結びつき。

二人で力を合わせて、異国の地で、どれだけ頑張って来たことだろう。


シェーンもタイソンも、いつか是非、日本に行ってみたいという。


自分のルーツの源である日本を、いつか是非、彼らに訪ねて欲しいと願っている。






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2013年11月29日金曜日

ランス爺さん




                                   Mr. Lance, photo by Noa 2013





ランス爺さんとの出会いは、週末に出向いたファーマーズマーケットの帰り、同じように、帰宅しようと、曲がり角に止まっていた
彼の車をヒッチハイクしようと、その窓をノックしたところから始まった。




“もしかして、コナの方に向かうところ?”

“いいよ、乗りな。”




こうして助手席に乗せてもらったランスと名乗る、見た目70過ぎの、痩せて長身の爺さんは、行き先を告げると、自分も丁度、
そこまで行くところだ、とうれしそうに言った。



“ファーマーズマーケットに行ったの?”


“そうだよ。ちょっと顔出して、買うものだけ買ったから、帰るところだったんだよ。人ごみは、好きじゃないんでね。”



笑顔が似合う、優しげな老人だ。




“朝、いるかと泳ぎに、今働いてる農園のオーナーとビーチまで行ったんだけどね。
でも、いなかったから、途中で下ろしてもらったのよ。


ね、いるかと泳ぐことについて、どう思う?
それって、彼らの邪魔にはならないのかな?”



“そうさなぁ、いるかが遊びたいと思っている間はいいけれど、カヤックで、彼らの中に割って入ったり、彼らを追いかけ回したりするのは
問題だよなぁ。


第一、ベイには人が多いだろう?


わたしは、敢えてその中に加わりたいとは思わないよ。かといって、泳いでる人たちを、どうにか出来る訳でもない。


ただ、彼らの行動が、いるかの心をいつの日か、完全に閉ざしてしまわないかと、わたしは心配なんじゃよ。”





爺さんと自分は、波長が合うなと、直感で思った。



“わしはな、人との関わりが苦手なんだ。だから隠れて山の上に生活してるんだよ。

でも、あんた方のような人に会えて、こうして話が出来てうれしい。あんた達が行こうとしている町の丘の上に、うちの農園があるんだ。
もし何だったら、見て行かないか?おいしいラテをごちそうするよ。”と爺さん。



二つ返事で連れて行ってもらうことにした。



果たして、山の手を登る事5分。


到着した場所に降り立って、私達は歓声を上げた。


空気が澄んでいる。それもこの上なく。


遮る木も何もない。


綺麗に刈られた芝生が一面に広がって、脇にはバナナやいちじく、オレンジ、パパイヤ、マンゴなどの果樹が植わっている。


                                       



















                                                                



























同じ農園であるにも拘らず、私達の滞在する場所と、土地のエネルギーがここまで異なるのは、どうしてだろう?


“昔、ハワイの王様が住んでいた場所らしいよ。ほら、あの城壁をみてごらん。”


確かにそれらしいものが残っている。

爺さんは、その昔ヨットの設計士だったという。

古いヨットを改築して作ったキャビンは、体を壊した友人が療養できるようにと、木材の部分だけわけてもらって、時間と労力を掛けて、
少しずつ作ったものらしい。




























アメリカ人の、創作能力には目を見張るものがある。

何もないところから、アイデアで何でも編み出してしまう。


彼のワークショップ(作業部屋)にも案内してくれた。



人付き合いの苦手な爺さんは、自分で何でもするという。


自ら家を建てたほか、業者に頼むとやきもきするからと、ソーラーパネルや水貯ねを取り付け、水道代や電気代は
払ったことがないという。

急勾配に植えたコーヒー畑を上り下りする為に作られた階段には、彼が、その昔乗っていた、ヨットの
サイドステーが取り付けられていた。


”もう年なんで、時間が掛かるんじゃよ。でもな、少しずつやるのさ。ゆっくりとね。”



敷地内を案内してくれた後は、いよいよ自宅に招き入れてくれ、ラテをごちそうしてくれるという。

中に入るやいなや、私達は、再び歓声を上げた。


家の中に、様々なお宝がたくさん詰まっていたからだ。



アジアの各地から集められた仏像。

チベット仏教の飾り絵。



家のライトは、昔彼が作っていたヨットから移した年代物だ


古時計、大昔に使われていたらしき古トランク、薪ストーブ、一つ一つに味があり、そのどれもが美しい。














































物が捨てられないのだという。


“今は世の中、変わっちまったけどな。なんせ、ブルーカラーの仕事に就く人間がいなくなっちまったんだ。

今や皆んな、コンピューターの仕事さ。だけど、土にも触ったことのない子供が、一体どういう大人になるっていうんだよ。”


爺さんの顔が一瞬曇る。


自分は社会の流れについていけないのだと呟く。


幼くして母親を失くし、継母とうまくいかなかった為、13の年で家を飛び出て、理髪店で靴磨きをしながら
食いつないで生活したらしい。


職を転々としながら、やがて海軍の仕事にありつき、ベトナム戦争にいって、自分の予想とは裏腹に、生き延びてしまった。


“本土の土を踏んだ時にはな、天に向かって十字架を切り、地面に口づけしたよ。

ところがさ、バスに乗った瞬間、そこに乗っていた奴らが、凄い目つきで、俺を睨みつけるんだ。唾を吐きかける奴もいた。

ベトナム帰還兵は、社会のはみ出し者とされたんだ。あれは本当にショックだった。

それ以来、人とは拘らないように、隠れて生活しているのさ。”


彼の声は、興奮の為に声高となり、それでも、自分の人生は祝福されていたと、何度も繰り返す。


静かな丘に建つバルコニーの向こうには、水平線が、燦々と照る太陽に輝いている。


現実と幻想の狭間にいるかのような、静かな空間。


爺さんの入れてくれたラテは、甘く優しい味がした。


どの国にも、どの時代にも、社会の犠牲となった人がいる。














2013年11月27日水曜日

NIKKEI



                                                                                                                                                                     Big Island, Oct, 2013




ハワイ島に来ています。



この島を訪れたのには、いくつかの理由があるけれど、その一つが、自分と同年代の日系に会って、話を聞きたかった、ということ。


2006年にシンガポールから帰国した年、縁があって就いた仕事で、隣に座っていた女性が、以前に日系移民の担当をしていたことから、彼らについて、改めて知ることになった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/日系人



日系という言葉こそ知れど、聞けば聞く程に驚くことばかりで、その前後にたまたま読んだ、ワイルドソウルという小説で、彼らの存在が、より一層深く胸に刻まれたことも、要因だったように思う。



私が住んでいたメキシコには、かなりの数の日系人がいて、話を伺う機会もあったし、顔かたちが似ている、韓国系ロシア人の子と仲良くなり、その話を聞いた時も衝撃だった。



彼ら韓国系ロシア人(血筋は韓国だが国籍はロシア)は、第二大戦中、当時統治していた日本軍により、労働力として連れて行かれ、終戦後、日本兵が引き上げる中、そこに置き去りにされた人々なのだという。



「ロシアでは韓国系なんて、ステータスがないに等しいの。私の親なんて、読み書きさえ出来ないわ。必死で働いて、そして未だに惨めな暮らしを強いられている。

私はそんな生活は耐えられない。けれど、この国ではチャンスがない。

だから、インターネットで彼と出会って、はるばるここまでやってきたのよ。」と彼女。


同じ年代の、美しい黒髪に切れ長の目を持ち、ビーチフロントの豪邸に住む彼女に、そんな過去があろうとは、日本、そして戦争が、そんな傷跡を残していたなんて、一体誰が知っているだろう?



いつの日からか、私の頭の中には、一つの言葉が反芻していた。

それは、自分のルーツ(血筋)について。


これは、旅を続け、また、自分が親を失って一人になった時、改めて浮上してきた言葉だった。



自分が、日本という場所に生まれた、紛れもない日本人であることは、自覚してきた。

しかし一体、その自分は先祖から、どんな血筋を受け継いたのだろう?


日本という国は、かつてはどんなところで、この先、どこに向かっているのだろう?


それから、他国に移住した日系人。


彼らの苦労は言うまでもないが、その子孫である、我々と同世代の4世5世は、自分自身のアイデンティティを、どのように捉えているのだろう?




全くの興味心だった。


けれどそれを、どうしても自分の目でと耳で確かめたかった。


偶然といってしまえばそれまでだけど、行く先行く先で、衝撃的な話を聞く度に、それを、そのままにしておけない何かを感じた。




どうして、彼らに興味を持ったのか、自分でもよくわからない。


ただ単に、同じ顔かたちの彼らに、興味を持ったのか。

それとも、彼らから「日系で良かった」という言葉を聞いて、愛国心を分かち合いたかったのか。

あるいは、同じ血筋でも、国を隔てることにより、どこがどう異なってきたのか、体感しかったのか。




***




目の前に、突然広がった光景を見た時、私は言葉を失った。



サーフポイントに行く道すがら、青い海を見下ろす丘の上に広がっていたのは、大きな日本の霊園だった。


太陽の明るい日差しを浴びて、そこに佇む、亡き先人の墓石の数々。


そのお墓の多くには、色彩鮮やかな南国の花が、ふんだんに供えられて、その場所を明るいものにしている。


遠く離れた異国の地で亡くなった、同胞者の方々----なんとなく寂しげなイメージとして植え付けられていた彼らの姿は、自分の勝手な先入観と共に、見事に叩き付けられた。


こんな綺麗な場所に、こうして今でも大切に守られているお墓の数々。

早朝にも拘らず、車で花を供えに来る老人の姿は、跡を絶たなかった。



ここに眠る人たちは、ひょっとすると、母国にいた時より幸せかも知れない。



一礼して、私はその場を静かに立ち去った。




























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2013年8月26日月曜日

苦しみ



Donguri Don-chan 2013.6






たくさんの痛みに溺れる。



住んでいた家を手放す苦しみ。


もはや私の一部となった猫との、しばしの別れ。


友人、そして故郷との別れ。


再びゼロになってしまうことへの恐怖。




この苦しさから逃れる、何か良い方法はないかと、しばらくもがき、悶々としていて、


ふと気がついた。



苦しみは、私達の敵ではない。



それは生きていることの、まぎれもない証であり、成長に必要な糧であり、


決してネガティブなことではない。





自分の胸の真ん中に、しばし居座った苦しみの感情を、捕まえ、認め、じっと見つめた時、


ふと肩の力が抜けたような気がしたので、ここに書き記しておきます。





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2013年3月11日月曜日

視る





知人に、世界中を旅して回る女性がいる。


日本を離れ10数年、行く先行く先で仕事を見つけては、旅を続ける彼女。
”板の上でも熟睡できる”、と豪語するも、”どうして日本に戻らないの?”という私の質問に、応えて一言。



”なまるから。”



物が豊富で、何一つ不自由を感じる必要のない母国。
帰る故郷のある有り難さ。


アフリカだけでも、単独で3周した彼女には、その有り難みが、人一倍感じられるのだと思う。

まるで修行僧だな、とその時感じたことを、今でも覚えている。



果たしてレベルこそ異なれど、私も同じような理由で、ここに留まっている。


基本的インフラの欠如に加え、欲しいものが簡単に手に入らない。
治安に、労働条件の問題。


働き者は日本人だけじゃないんだと、国を出て、はじめて気がついた。


日本に居た頃、自分が普通に享受していた、週二日の休み、有給(もし勇気を出せば)、労災に組合や保険など、後進国の企業にはあり得ない。


仕事中に胆石の激痛に倒れた同僚は、悪評高き、公立病院に担ぎ込まれ、3回に渡り、縦横斜めにメスを入れられた。



他に選択の余地がないのだ。



私達、先進諸国民のように、”恐ろしいから、プライベートの病院に行きましょう。”とは、言えないのだ、労働階級の彼らには。


表向き華やかなホテルの裏側では、ボールペン1本与えられず、長時間労働は当たり前、強制的に持たされた備品が壊れて弁償し、手違いで予約したツアー代を自腹で払い、それでも、他の職場よりはずっといい給料と待遇で、働く人々がいる。



今日も明日も、ただ黙々と。


そして、恐るべき事に、こんな悪しき条件の基で働くために、毎日遠方から、大勢の人が、夢を求めてやって来るのだ、この町へ。


そんな彼らの姿を見ながら、終わりのない戦いに挑む彼らの心境たるや、如何なるものかと思いを馳せる。



そして、理不尽と、不自由と、重圧の中、私達より、更に厳しい条件で生きる人が、この世の中には、圧倒的に多いという事実にも。



なまってはいけないと思う。


どこにいても、何をしていても、自分なりの方法で、常に目を見張り、世の中で、何が起きているか、見つめなければならないと思う。



厳しい目で、そして愛情を持って。


時間が許すなら、旅に出て(それが隣町でも)、自分がどんなに恵まれた環境に生きているか、是非、見つめ直して欲しい。特に子供達の世代には。



不自由さが、真に生きるということが、どういうことか、少しでも体験する機会を持てたなら、見えてくる世界が、異なってくるのかもしれない。






3月11日・日本人に取って、特別な日に寄せて。








追伸:昨日、食堂のテレビでは、2年前の映像が、ドキュメンタリーとして流れていました。同僚には、数々のお悔やみの言葉を受け取りましたので、皆さんにもお伝えしたいと思います。




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