2012年1月20日金曜日

一瞬の出来事・2



荷物を急ぎ自宅に置いた私は、その足で階下に降り、いつも寝てばかりで仕事もしていない、ぐうたらペドロを呼んだ。

”ペドロ、緊急事態発生。早く起きて!”

どうしたんだと部屋から出てきた彼に、私は手早く説明する。

”向こうの角で、車が止まってしまって、動かなくなったの。早く移動させないと水没してしまうから、一緒にきて車を押して。”

”わかった。”

私がずぶ濡れの状態だったので、事の重大さを察したのだろう。
ペドロは取るものも取りあえず、私の後を付いてきた。

次に、私はいつも買い物をする角の店に飛び込んだ。
”車がむこうの角で止まってしまって、助けが必要なの。一緒にきて手伝って。”

店には主(あるじ)をはじめ、息子、奥さんがいたが、私の車が水に浮いているのを見ると、皆無言で、店の中に入ってしまった。

いつも、笑顔で挨拶してくれる愛想の良い主だけに、ショックではあったけど、助けてくれないものはどうしようもない。誰しも、トラブルとは関わりたくないのだ。

私とペドロ2人ではどうしようもないことはわかっていた。

けれど、あのまま車を放置していたら、車の中は完璧に水没し、使いものにならなくなるかもしれない。

私は先ほど戻ってきた水溜まりの中を、ザブザブと戻って行った。
ペドロは履いていたスリッパを脱ぎ、おぼつかない様子で、私の大分後から付いて来る。

その時前方に、水浸しの道路を閉鎖しようと、周辺住民の一人が、ロープを片手に出てきた。ロープの真ん中には赤い小さな旗が括り付けられている。

これまで何度となく浸水する度に、彼らは自らの手で、道路を閉開してきたのだろう。

行政は、この貧困地区には目もくれないし、車が通る度に巻き起こす波で、周辺の家の中には水が入ってくる。

そして、それを止めるためには、誰かがこうやって自分の手でなんとかしなければならないのだ。

私は彼に近づくと、車を動かしたいから手伝って欲しいと告げ、そのまま前進してやっとのことで車のところまで辿り着いた。

ペドロは遠く離れたところで、それでもこちらを目指して歩いて来ている。

まずは一人で車を押してみた。
けれど、もちろん濁流に飲み込まれた車は、びくともしない。
それから何度か車を押すけれど、うんともすんとも言う気配がない。

先ほど支援を頼んだ周辺住人は姿が見えなくなってしまった。

だめだ、ペドロと2人ではどうしようもならない。

私は渾身の力を込めて、再び叫んだ。

”Ayudame!(助けて)”

けれども、降りしきる雨の中、私の声はどこにも届かなかった。

すぐ近くの洗濯物やの奥から、ちらりと人の陰が覗いたが、決して手を貸してはくれなかった。それもそのはず、濁流はすでに腰丈まで上がっていた。

絶望感に打ちひしがれていると、その時、息を弾ませながらペドロが到着した。
私が、一緒に車を押すように指示すると、いつもは箸にも棒にも引っかからない彼が、こういうではないか。

”kyoko、この車は何かの上に乗り上げてしまってる。だから後ろから押してもだめだ。前から押すか、持ち上げて移動しないと。”

しかし、私と彼だけでは、前にも後ろにも動かすことは出来なかった。
絶体絶命か・・そう思った次の瞬間、先ほどの周辺住人が再び通りに姿を現した。

急ぎ手招きし、3人で車を押してみるも、やはり動く気配がない。

頭の中が真っ白になりながら、それでもペドロに言われるがまま、助手席に座り、エンジンを掛けると、なんとかエンジンは掛かった。それを2人で押すのだが、已然反応なし。と、そこに大きなダンプが水を掻き分けながらながらゆっくりと向かってきた。

さすがダンプだけあって、この水位はなんてことないらしい。高い車体の助手席から私たちを見下ろしながら近づいてきたが、周辺住人が何やらスペイン語で叫ぶと、彼らは濡れることも厭わず、さっとトラックから降りると、輪の中に加わった。

”それ1、2、3”

”もう一つ、1、2、3!”


またしてもペドロが戻ってきた。

”Kyoko、ギアを入れて!”

混乱のあまり、エンジンはかかったものの、ギアを入れる事をすっかり忘れていたのだ。

そしてギアを入れた瞬間、車はすーっと動きだし、私はエンジンが掛かったことを幸いに、ゆっくりと水の中を前進した。運転しているんだか、水の中に浮いてるんだかわからない感覚。

それでも、1ブロック、2ブロックと前進する度に水位は下がって行き、私の住むブロックのところまで来ると、水は殆ど捌け、代わって、私の車の中の泥水が雨水に混じって通りに流れていった。

家の前まで辿り着いた私は、戻ってきたペドロと共に、休む間もなく、今度は車内の泥水を必死に掬った。

ペドロは繰り返し、こう呟いた。

”あぁ、こんなことになってしまって。Im so sorry, Kyoko(言葉が出ないよ)”

私は降りしきる雨の中、黙って泥水を掬い続けた。

(続く)

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