2012年6月17日日曜日

時を超えて










ミャンマーのことを良く知らない人でも、アウン・サン・スー・チーの名前を聞いた事のある人は多いと思う。 

ビルマの独立運動を主導しながらも、その達成を目前にして暗殺された、アウンサン将軍の娘。 

彼女のその絶大なる人気は、親譲りの聡明さもさることながら、その凛とした、竹のようにしなやかに美しい容姿も、多いに関係するし、日本で彼女のファンが多いのも、このせいではないかと私は密かに思っている。 



私が彼女を知ったのは、もう20年近く前のこと。最初に自宅に軟禁されたことが、報道されたのがきっかけだったと思う。 

軟禁という言葉を初めて聞き、その意味が実際のところどういうことを意味するのか、また、国連を始めとする諸団体は、これに対して何ら対処することが出来ないものなのか、と訝しく思いもした。 



次に衝撃を受けたのが、それから10年後の1999年。自らの夫が病気のため、死に瀕しているにも拘らず、彼女はその最期を看取ることを許されなかった。 
一体、この軍事政権とは、どういう冷酷非道なものなのか。 
憤りと共に、同じ人間としての神経を疑った。 



それから5年後の2004年。 
私は当時、シンガポールで働いていて、転職することをきっかけに、長い間夢見て来た、東南アジア一帯を旅して回ることにした。 
ミャンマーは、その最初の目的地であった。 



正直言って、入国する前はかなり緊張もしたし、なんとも重い気持ちがあった。 
21世紀に入っても、未だ開かれぬ、軍事政権の国。 
そして、アウン・サン・スー・チーが今も軟禁される国、ミャンマー。 

この国で、闇雲にお金を使うのはやめようと心に誓った。 
お金を消費することが、国の繁栄につながり、それが軍事政権を益々増長させることになってはいけない、と。 



ところが、そんな重苦しい思いを持って訪れた彼の地の印象は、空港に降り立って、ヤンゴンの町並みに差し掛かると共に吹っ飛んだ。 

町には、小田急バスや地方都市バスなど、日本の中古バスが、あちこち走っていて、それが私の幼少時代に見た原風景とオーバーラップして、郷愁さえ覚えたのである。 

不意をつかれる、とはあのことだと思う。 



緊張していた心身に、その光景はかなり衝撃的で、実際、町に降り立って歩いてみて、その雑多な賑わいが、タイにもマレーシアにも似た、南国独特のものであることを嗅ぎ取った時、国の状態は如何なれども、国民とは何の関係もないことに初めて気がついた。 

実際そこから始まって、マンダレー、バガンと旅を続ける道中、そこで出会った人々は、私が10代後半から旅を初め、出会った人々の中で、最も純真無垢かつ、心の綺麗な人々だった。



皮肉な事に、軍事政権によって、入ってくる情報や物資が限られたことにより、彼らが他の東南アジアの観光地のように、「人擦れ」することを防いだのである。 

それは、まるで鎖国時代の日本を見ているようでもあり、実際、彼らと話をする中で、彼らが非常に日本人の特質に似ていることにも気がついた。 

彼らは内気で寡黙であると共に、忍耐強く、時には激しく、その笑顔は非常に美しい。 


そしてその裏腹に、彼らは厳しい環境で生きねばならぬことを強いられている。 



政治について語ることを禁じられ、 軍政について悪く行ったものは、ことごとく特高に検挙され、収容所に入れられるビルマ人。 
マンダレーの丘で私の目を奪ったものは、その丘から見る美しい夕日ではなく、その麓にそびえ立つ、異様に近代的かつ巨大な収容所であった。 


私を案内してくれたガイドは、私の質問に一瞬顔を歪ませ、会話として成り立たないままに、それは夕暮れと共に掻き消されてしまった。 


メールをチェックするために立ち寄った町のインターネットカフェで見たものは、「このサイトは軍事政権により、閲覧することを禁止する。」と書かれた真っ赤な警告であった。 
ホットメールを開こうとしても、ヤフーを開いても、ウィキペディアもここでは見る事が出来なかった。 


画面を前に、ここは一体、何をするところなのだろう?と一人苦笑した。 


そんな苦境の中に生きてきた彼らが、そしてそれを見守る私たちが、時を経て、これから先どこへ向かうのか。


それは紛れもなく、私たち一人一人の手に掛かっているということを、彼女は身を持って実証してくれたのかもしれない。



                   ※※



アウン・サン・スー・チーさん、21年後のノーベル平和賞受賞演説より。



「平和を手に入れることは可能です。それを真に望み、将来への希望を失わなければ。
強くありましょう。そして決して諦めてはなりません。」








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