Pray for peace, pray for love. 3.11 |
折り紙の鶴は、ここ、メキシコでは珍しいものなので、日中はたくさんのスタッフが集まって、”私にも折り方を教えて”と希望者が後を絶たず、また、ご縁あって当日ホテルにいらっしゃったお客様には、”どうぞ参加して下さい。”と声を掛けた為、結果的に机の上には、みんなの愛のこもった鶴がたくさん並んだのであった。
その一角は、その後もずっと盛況で、暗くなるにつれて、キャンドルの明かりが目立つのか、通りかかるお客さんの多くは足を止め、またいつもはただの顔見知りである別部署のスタッフーーその多くは、日頃はぶっきらぼうだったり、事務的であったり、ただ軽く挨拶をして通り過ぎるだけの人ーーさえも、今日だけは、その場に立ち止まり、おもむろにその光景を眺め、こうコメントする。
”なんて素敵なんでしょう!”
”これは、何の意味があるの?”
そして、そこに小さく書かれた小さなメッセージ、
-Pray for peace, pray for love. for the memorial day of Ttsunami 3.11-
を見ると、黙ってその場に佇むのだ。
これは、実は私には驚くべき事実だった。
何故ならば、通常私の知る限りでは、彼らは笑うこと、楽しむことが大好きで、少なくともこういうモニュメントを鑑賞したり、それに対して思いを寄せたりということを、これまで目にした事がなかったから。
しかし、彼らの、その愛情深い眼差しや、真摯な姿を眺めているうちに、ふとある一つの事実に気がついた。
ここ、カンクンには、こういう生活に関係のないアート(もしそう呼べるのであれば)に接する機会は殆どないに等しいのである。
物の氾濫した日本において、折り紙や鶴なんて、ごくごくありきたいのものでしかないけれど、この国には、こんなにきれいな色紙もなければ、それを使って、このようなものを作り出すなど、まだまだ未知の世界のことなのだ。
だから彼らは、一様に感嘆の声をあげる。
”本当に綺麗ねぇ。”
”これは何で、どうやって作るの?”
”これ、あなたが作ったの?”
その言葉に偽りはなく、そんな彼らの眺めているうちに、なんだかこちらが癒されていることに気付き、失笑してしまう。
ところがそんな微笑ましいやり取りがある一方で、ゲストからの苦情も、相変わらず続いた。
まずは、メキシコシティから訪れたという駐在員の男性、その次は、一般のハネムーン客であったのだが、最初の男性は、チェックイン時からかなりのご立腹だった。オートチェックインしたにも関わらず、アサインした部屋が変えられている、というのが始まりだった。
彼は、私の同僚である女性に向かって、勝手に部屋が変えられているのはどういうことかと、えらい剣幕で言ったようで、その勢いに押された彼女が、助けを求めたこの道のエキスパートの男性スタッフにも、散々と怒りをぶつけたようである。彼が、どうしてそうなったのか、理路整然と理由を説明したにもかかわらず。
翌日出勤した私のところに、今度はご本人から電話が掛かってきた。
彼は、昨晩と同様に激しい怒りを私にぶつけ、”メキシコ人は全く話しにならない。自分もメキシコに駐在しているのでよくわかる。だから昨日は、マネージャーに、説教をぶちかましてやった。(本当にこういう口調で言った)一人や二人、首にするまでは、帰らないからな。”と一気にまくし立てた。
経験上、ここまで怒っているお客さんに出来る事は、ただ一つ。ひたすら低姿勢で謝り続けることだけである。それ以外にこの手のお客さんが納得する手はないだろうし、感情的になった人に、何を言っても通じないのは皆さんもご存知の通りである。
そこで、私はひたすら謝った。多分、50回は謝ったと思う。それで収まればと思ったのだが、結局彼は、その翌日変わる部屋についての条件ーー明日は、一分一秒たりとも待つつもりはない。なんだったら、それよりも早く部屋を明け渡して頂きたい。ーーと言い切って、電話を切ったのであった。
その後、改めてその前日にチェックインをした女性スタッフとも話したが、彼女の対応に落ち度があるとは思えず、逆に、その後、彼女の具合が悪くなってしまったというのを聞いて、なんだか腑に落ちない気持ちとなった。
結局、そのゲストは、翌日も、またその翌日も、苦情を申し立て、私たち日本人に取って、生涯忘れる事の出来ない3月11日に、ホテルを後にした。
その次のお客さんは、新婚の若いカップルであった。翌日の出発が早いことが分かっていたので、夜遅くなる前に電話をし、”今晩中にご清算をお済ませになられれば、明朝、スムーズにチェックアウト出来ますので。”と伝えたのだが、タイミングが悪かったのか、迷惑そうな様子が伺えたので、用件のみ伝えて、早々に切った。最後の晩に、お客さんの邪魔になるようなことはもちろんしたくなかったからである。
その後、他にも同様に電話を掛けたお客さんが、早い時間に清算にやってきたにも関わらず、私が窓口を閉めて帰る11時前になって彼らは2人でやってきた。
その姿から、すでに何かご不満を持っていることは察することが出来たのだが、案の定、精算額を表示すると、彼らはその金額が間違えであると指摘した。
曰く、”頼んだのは一人1つずつで、2つ頼んだ覚えはない。”とのこと。
もしかしたら、それは本当だったのかも知れない。けれど、その事実を確認するには、時間が遅すぎた。スパも閉まっていれば、その予約を取った昼番の女性も帰ってしまっていたからだ。
残念ながら、翌日早朝にチェックアウトされる彼らに言える事は一言。
”申し訳ないのですが、この場は一度お支払い頂いて。”ということだった。
しかし、ご想像通り、このケースも簡単にはいかなかった。
”頼んでないものは支払えない。”という理由のもと、押し問答で話が進まないので、申し訳ないとは思いつつ、施術後、サインした書類をお見せして、”このサインにご記憶ございますか?サインをして頂いたことは、内容に同意したということになりますので・・。”とやんわり言ったのだが、それでも頑として譲らない。
ここまで来ると、私では手に負えないので、マネージャーを呼び、説得して貰ったのだが、答えは同じ、”絶対返してもらえるという証明がない限り、支払いはしない。””ここは外国だと言われても、あなたたちは、日本人ですよね?こういうトラブルが 起こらない為に、あなたたちはいるんじゃないんですか?”と、心外な発言も受ける羽目となった。なぜならば、確かに私たちは、日本人ゲストが快く過ごせるお手伝いをしている訳だけど、だからといって、一人一人のゲストのお世話を全て出来る訳でもなく、また我々とて従業員の一人で、私たちにはどうしようもできないことも少なからずあるからだ。
結局、お客さんには後日エージェントを通してご連絡させて頂く、ということでお支払いを頂いたのだが、結局この件が長引いた関係で、私の当初の黙祷の時間はお流れとなってしまい、重苦しい気持ちのまま、岐路についたのであった。
私は、お客さんを非難するつもりもなければ、私たちが正しかった、と自己正当化している訳でもない。
現に、ホテルには問題が山積みで、でも、それがわかっているからこそ、我々は走り回っているのだ。
ただ、ここで言いたいのは、私たちにとっては大切なはずのこの日に、何もそんな小さなことに、重きを置かなくても良かったのではないかということだ。
いいじゃない、ここはメキシコなんだもの。
人々はどこまでものんびりとして、だからこそ、彼らは私たちには決して作れない、とびきり素敵な笑顔を見せてくれるのだ。
いいじゃない、せっかくのハネムーンなんだもの。
もしかして、間違って2人分付けられたとしても、途中で気付いてはいたのだし、それにマッサ―ジ自体は気持ちよかったもの。
いいじゃない。去年の今日、あんなにたくさんの人が、一瞬の間に亡くなって、それが私たちの身に起きていたことだったのかもしれないけれど、訳合って、私たちはまだここに生かされているのだもの。
もっと優しくしようよ。
もっと余裕を持とうよ。
もっと視線をあげようよ。
机の上の鶴に彼らが気付いていたか、今となっては確かめる術もないけれど、彼らの胸にも、幸せの灯が灯っていることを願わずにはいられない。
我々日本人は、幸運にも、生まれながらにして器用な手先を持ち、勤勉であることが幸いして、国としての繁栄を遂げ、物質的にも充分すぎるほど豊かになった。
けれど、その豊かさとは反比例して、人としての成熟度や、人間度が落ちているのを感じるのは、とても寂しい事だ。
机の一角に設けられた小さな平和の空間と、それを見つめる人々を眺めながら、私たち、日本人の行く末を考えずにはいられない、感慨深い一日だった。
机の一角に設けられた小さな平和の空間と、それを見つめる人々を眺めながら、私たち、日本人の行く末を考えずにはいられない、感慨深い一日だった。
めざめよ、日本人
めざめよ、日本
真の幸せのために
真の豊かさをもとめて
めざめよ
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一人でも多くの日本人にあなたのブログを読んでもらいたい。
返信削除いやはや、偉そうなことは言えないんですけどね〜。
返信削除でも、なんだか気になりますよね、色々と。