2010年11月30日火曜日

今朝の一曲 Vol.7

                       chile en mercado (Valladorid)



http://www.youtube.com/watch?v=76RrdwElnTU

アンドレ・リュウのハレルヤ。






実はこの人のこと、そんなに好きじゃないんだけど、皆、とっても楽しそうに歌ってるので
許〜す!(笑)


しかし、もう12月なんて、早いですね〜。




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2010年11月29日月曜日

嫌がらせ


                                           Julio (Valla de bravo)





久々にカラッと晴れたので、自転車で近くのスーパーまで買い物に行った。

普段は湿気が高かったり、日差しが強かったりして、なかなかその機会もないけれど、今日は特別。

空は高いし、風も涼しくて、気持ちがいいなぁ〜!

ところが所用を済ませ、サドルに買い物袋をぶら下げて、よろよろと大通りを漕いでいると、凄いスピードで通り過ぎようとする車の窓から、30代くらいの男が、いきなりこちらに向かって ”ウワァ〜ァアアッッ〜!!”と、鼓膜が破れんばかりに叫ぶではないか。

驚きで、自転車から飛び上がりそうになってしまった。

車の持ち主は、大きく車体をよろめかせた私を見て、助手席の男と共にゲラゲラ笑って通り過ぎる。

な〜んという低俗な嫌がらせ!!

しかし、あまりのくだらなさに、怒りを通り越して、こちらもガハハとでかい声で笑ってしまったよ。

さすがは南国。

同じ嫌がらせでも、青い空の下で生まれた発想は、北半球のそれとは随分違う。
なんというか、カラッとしてて、憎めない部分もあるな〜。

あ、だからと言って、もちろん彼らを許した訳ではないけどね。
今度、同じ車に出会ったら、こっちもさっと窓を開け、こういってやろうじゃないか。



”アチョ〜ォッッ!!!”

(ブルースリーの物真似付きでね。)






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Tさんのこと

                                           Casa Violeta (Tulum)








その昔、働いていた職場に、Tさんという人がいた。 

オフィスで働くと必ず付いて回る、面倒くさい人間関係の中で、Tさんはいつも一人ひょうひょうとして、明らかに他の人とは次元の違うところに存在しているような、そんな感じの人だった。 

どこの組織にいっても存在する、微妙な上下関係や出世を巡っての足の引っ張り合いのある中で、彼はそんなことなど、全くきにも止めないような様子で、ただの一介の契約の身の上である私にも、しごく自然に、そしてざっくばらんに話してくれて、私はそんな彼のことが好きだった。 

その頃私は横浜に住んでおり、通勤ルートが似通っていたせいか、彼とはよく電車で一緒にもなった。 

会うたびに、何を話したのかはよく思い出せないけれど、表面的な付き合いが苦手な私としては、ちょくちょく電車で顔を合わせ、小一時間も話さなければならないことなど、煩わしさ以外の何物でもなかったはずなのだが、彼にはなぜかそれを感じなかった。 

恐らくそれは、彼が人に殆どプレッシャーというものを与えない人であり、また、彼自身が独特の世界観の世界に住んでいて、人のことを詮索したり、品定めするようなところがまるでなかったからだろうと、今にして思う。 

メキシコの民族舞踊が好きで、自ら同好会を作って踊ってるんですよ、とうれしそうに話してくれた。 

週末の午後、職場の入っている有楽町のビルの廊下を使って練習をしていて、それに対して一家言持った人もあったかもしれないけれど、それがなんとなく公認されていたあたり、やはり彼の純朴な人柄によるところが大きいのではないかと思う。 

そんなある日、彼が職員を対象に無料でスペイン語を教えるというアナウンスがあった。 

女性職員の多くは喜んでそのクラスに参加したし、私も数回は顔を出しては見たものの、元々大勢の人の中にいるのが苦手だっとこともあって、足はだんだんと遠のき、ついには行かなくなってしまった。 

ある日、通勤途中でTさんに、”どうしました?”と聞かれ、”いや〜、ちょっと予定が合わなくなっちゃったもので。”と誤摩化すと、何を察したのか彼は、”じゃあ、他の日の開いている時に、もしよかったらやりましょうか?”と相変わらず親切だった。 

何しろメキシコが大好きで、自分の愛する国を理解してもらうために、そのルーツとなる言語を教えることは、彼に取って、喜び以外の何物でもない、といった真っすぐな情熱だった。 

それじゃあ、といって、それからしばらくマンツーマンで教えてもらっていた。一介の契約の身の上である私に対して、そんなことをしてくれる必要などもちろんなかった訳だと思うけど、ありがたくその好意に甘えることにした。 

結局私はその職場を2年で辞め、いくつかの転職を経て、最終的に、シンガポールまで働きに出る機会を得た。
兼ねてから、外国に住んで働いてみたかったせいもあって、その期間5年は、殆ど日本のことは忘れて、現地の生活を多いに堪能していたのだが、帰国して、たまたま当時の職場の人と会う機会があった時に、突然彼の訃報を聞いたのだ。

シンガポールでの生活が充実していて、楽しいものだっただけに、戻ってきて直後に、その訃報を聞いたことは、自分に少なからずも衝撃を与えた。


あんなに良い人が、どうしてそんなに若くして、命を失わねばならなかったのだろう?
メキシコが大好きだと言っていたけれど、その後、メキシコを訪れる機会はあったのだろうか?
そして、あの時話してくれた、小さなお子さんは?そしてご家族は・・・?


考えれば考えるほど、無償に悲しくて、そして、なす術もなかった。 










その半年後、私は地元で、留学生による語学教室を見つけ、インドネシア語の受講申し込みをすることにした。
当時、私はバリに移住することを漠然と考えていて、現実になった時のことを考えて、また、シンガポール時代に、ちょくちょく彼の地を行き来していた事もあって、片言で使っていた言葉を、少しでも忘れないように、と思ったのだ。


ところが受付の人を見るや否や、なぜか自分の口を付いて出た言葉は、”すみません、スペイン語のクラス、開いてませんか?”いうもので、一瞬の間の後、”すみません、もう一杯なんですよ。”と言われ、無性に恥ずかしくなった。
そして同時に、自笑した。”馬鹿だなぁ。今更スペイン語なんて習ったところでどうするんだ。”と。 

そして、その半年後。
私は運命の悪戯で、メキシコに住む、今の相方と知り合った。


当時の自分は、”メキシコなんて、そんな不便で遠いところ・・”、と思っていたし、あまりにも非現実的過ぎる、とも考えていた。


ところがそんなある日、忘れていたはずのTさんが、夢の中に突然現れた。 

”あ、Tさんだ、懐かしいな”、と夢の中の自分は思い、声を掛けようとするのだが、彼はこちらに向かって静かに微笑むだけで、そんな彼の言葉を待っているうちに、すーっと目が覚めて、そこには不思議な感覚だけが残っていた。

”今のは何だったのだろう?”と思い、”あぁ、メキシコ行きを躊躇している私に、はっぱを掛けにきてくれたんだろうな”、と解釈して、それも励みとなって、取りあえず、下見に行く事にした。
 
そして、下見の最終日。空港へ帰る車中で私は交通事故に合い、飛行機をキャンセルせざるを得ない状況になったのである。


頭の打ち所も悪かったのかもしれない。何を思ったか、私は、帰国してすぐに、職場に戻るや否や、退職することを告げ、インドネシアはおろか、日本から最も遠くて行きにくい、ここ中米へ、荷物をまとめて来てしまったのである。

正直、来なければよかった、と思う事がたくさんあった。 
明らかにミスマッチだったな、と思う事もしばしばで、あきらめが肝心、と悟った今では、ストレスも以前のようにたまらなくはなってきたが、その一方で、自分に本当に居心地の良い場所が、他にあるように思えてならず、また時期が来次第、模索の旅に出たくてうずうずしている。 

・・とそんなことを、人に話しているうちに、ふとあることが頭に浮かんだ。 

もしかしたら、Tさんは、私の目を通じて、彼が見たかった世界を、私と一緒に見ていたのではないかしら? 
”いつか住んでみたいんです。”そう言いながら、若くして逝ってしまった彼は、天国のむこうから、ふと私のことを見かけて、”あ、あの子だったら、代わりにやってくれるかも!”そう思って、私に合図を送ったのでは? 

もしそれが本当だとしたら、私が経験していることは、もはや私一人のものではなくなって、学んだこと、出会った様々な人々や感動は、少なくとも彼と共有してきたことになる・・・そう思ったら、急に肩の力が抜けたような気がした。

回り道かもしれないけれど、これで良かったのだ
私は、私にしかできない貴重な体験を、ここで、今こうしてしているのだから。


そして、この貴重な経験をするきっかけとなってくれた彼、人々にひたすら惜しみなく持っているものを与え続けてくれた彼に、今改めてお礼が言いたい。 



ありがとう、Tさん。 


あなたに遠い昔教わったスペイン語は、今ここで、こうして花開いています。
とても小さな形ではあるけれど・・。


そして、片言のスペイン語と母国語を通じ、私はこの国の子供達と向き合い、時にこんなメッセージを送ることもできるのです。


人と何かを共有できることが、どんなに幸せなことかを。
時間は掛かっても、夢は必ず叶うということを。


すべてはひとつであると、私はしんじています。






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2010年11月26日金曜日

今朝の一曲 Vol.6





http://www.youtube.com/watch?v=PhRa3REdozw

演奏は、オルガンの寵児トン=コープマン。
彼の演奏って、人を引き込ませます。



秋ですね〜。





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2010年11月24日水曜日

今朝の一曲 Vol.5

                                         Hotel las ranitas (Tulum)





今日はこれ!

http://www.youtube.com/watch?v=9ZK4zTc1HnU&feature=related





ツィマーマンの弾く悲愴ソナタ。

聴いて下さい、この軽やかで歌うようなメロディーを。
さすが、世界に名を轟かせるピアニストだけありますよね〜。

しかし、何といっても重要なのは、この方の容姿。
年とって渋くなってきたなぁ・・。

こんな人に目線送られたら、私、一発でコロっといきそう。

彼、マネージャーとか、募集してないかしら。(爆)




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2010年11月23日火曜日

サプライズ



昨日帰宅してポストを開くと、見覚えのある文字が目に入ってきた。
日本からの不在通知。
あっと驚くと共に、胸がワクワクと高鳴る。

通知を見てみると、そこには、”郵便局に荷物を取りにきて下さい。”とのメモ。

一度でも、地元を離れて暮らしたことのある人だったら、郵便の威力が如何なるものか、簡単にご想像頂けると思う。

メールでは絶対味わえない、そのワクワク感。
そして封を開ける時のときめきといったらもう!

ちなみに私は日本のほぼ裏側に住んでいる関係上、このワクワクぶりが、人様の5乗は軽く増減されることを書き加えたい。

昔シンガポールに住んでいた時分は、こうした思いは未経験であった。

なぜなら、ちょっと表に出れば、そこには高島屋があり、紀伊国屋があり、古本屋があり、ラーメン屋もあれば焼き肉やもある訳で、ないのは自分の小遣いだけという悲しい状況に加え、おまけにアジア圏にいた関係上、そこまでモノに執着する必要もなければ、苦労する必要もなかったわけである。

ところが場所が変わって、今はラテンの国メキシコ。
ここには、日本食どころか、中華、韓国、タイ、マレーシア、インドネシア、インド、ベトナムなど、懐が心細かった時、代用食として私の見方になってくれた食べ物が一切なく、代わってあるものはというと、タコス、キビス、タマーレス、ピッツアパッツァにアルゼンチンの肉料理にイタリアンと、油分の多いものだらけ。

自分がアジア人であること、そして、アジア食をどれだけ愛しているか、私はこちらに来て、初めて知りました。
ええ、どんなに美味しく感じても、アジア食以外の食べ物って、そうそう毎日は食べられないものなのです。

よって我が家の食事は、通常日本食。
米と麺を用いたものが、我が家の平均的なメニューであり、限られた野菜や肉を使って、それらしく仕立てるのが醍醐味でもあり、チャレンジでもあり。

しかし、問題はなんといっても、使用頻度が多くて、手に入りにくい加工品である。

あと、限られた食材の中で、自分の食べたいものを作るというのは、なかなかに想像力を要するもので、それも想像力で補えているうちはいいのだが、ふとした時に食べたくなる、懐かしい味が頭に浮かんだ時、望郷の念は最大級に膨れ上がる。
そして思う。

”あ〜、なんでこんな遠いところに、自分は居るんだ〜!”と。

そういう訳で、郵便箱に不在通知を見つけた時の興奮はというと、幼い頃、待ちに待った、なかよしの発売日に、掛けられた紐を解く、あの瞬間さながらのアドレナリン排出量。

今日は6時に起床の上、普段は滅多にしない掃除などして、家を神聖なものにした上で、意気揚々と郵便局に出掛けました。

と〜こ〜ろ〜が!
気合いを入れれば入れるほどに、ハプニングが付き纏うのが、この国の頭の痛いところ。

窓口で散々待たされた挙げ句、通知書を出すや否や、”荷物受け取りは向こうのドアに回って。”と軽くあしらわれ、苛立ちを押さえつつも、素直に行ったら、”え?荷物は配達用に出払って、ここにはないよ。”と肩すかしな返答。

が、ここで負けては居られぬのである。

中身は神聖なる日本食なりとて、ここは何としても、一刻でも早くブツを手に入れたい。
なので怯まずに言った。

”ちょっと〜、この紙に何て書いてあるのよ?取りに来いって書いてるじゃないの!今すぐ持ってきて!いーまーすーぐー!!!”

かくして、ドライバーに連絡を取って貰って、待つこと30分。

トラックが戻ってきて、人の良さそうなおじさんが出てきたところを狙い、待ってましたとばかりに笑顔で歩み寄る。

”あ、セニョール!これこれ〜、お願い〜!!!”

ところがそのセニョール、身分証明所用に提示したパスポートの、全く関係のないページなど、ジロジロと見ていて一向に進まないので、さっと没収した上で該当ページを開き、”あのね、向こうに車待たせてるから宜しくね。”と言うと(ホントは待たせてないけど・・)、やっとどこからか小さな箱を出してきて、おもむろに私の顔を見ながら、”あのね、土曜日に君の家の前にいって、kyoko〜、kyoko〜って叫んだけど、誰も出て来なかったよ。” とにこにこしながら言う。

土曜日?あ、そっか。私、学校に行ってて居なかったんだ!
あれ?!でも土曜日って、ポストにはそんな通知、どこにも入ってなかったけど!?!?

しかしまぁ、この際そんなことなどどうでも良い。

私は速攻でバスに飛び乗って帰宅。そして、いよいよ、待望の入刀の瞬間・・・
と、どこからか、猫さえもがワラワラと寄って来ちゃって、箱周り、ちょっとした賑わいである。



さて、出てきたものはというと、これ。






おっ!






おおっ!






おおおぉぉぉっ!!!!












送ってくれたK子ちゃん、本当にありがとう!
今宵は、芋けんぴとかっぱえびせんで宴です。

え?一気に食べるのかって?!

いやいや、こういうものは、一気に食べてしまうのが、いいのです。
いつ食べようか、なんてウジウジ思っていると、有り難みも良く分からない野獣に発見され、あっと言う間になくなってしまうから!

という訳で、今回は、日本からのサプライズ編でした。

皆様、いつも支えて頂いて、ありがとう。
何もないとこだけど、気が向いたらいつでも遊びにきて下さいね〜。









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届いたよ〜!


なつみちゃん、ありがとう!












この詳細はまた後日・・               


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時を超えて



Bagan, Myammaer, 2004






ミャンマーのことを良く知らない人でも、アウン・サン・スー・チーの名前を聞いた事のある人は多いと思う。 

ビルマの独立運動を主導しながらも、その達成を目前にして暗殺された、アウンサン将軍の娘。 

彼女のその絶大なる人気は、親譲りの聡明さもさることながら、その凛とした、竹のようにしなやかに美しい容姿も、多いに関係するし、日本で彼女のファンが多いのも、このせいではないかと私は密かに思っている。 

私が彼女を知ったのは、もう20年近く前のこと。最初に自宅に軟禁されたことが、報道されたのがきっかけだったと思う。 

軟禁という言葉を初めて聞き、その意味が実際のところどういうことを意味するのか、また、国連を始めとする諸団体は、これに対して何ら対処することが出来ないものなのか、と訝しく思いもした。 

次に衝撃を受けたのが、それから10年後の1999年。自らの夫が病気のため、死に瀕しているにも拘らず、彼女はその最期を看取ることを許されなかった。 
一体、この軍事政権とは、どういう冷酷非道なものなのか。
憤りと共に、同じ人間としての神経を疑った。 

それから5年後の2004年。 
私は当時、シンガポールで働いていて、転職することをきっかけに、長い間夢見て来た、東南アジア一帯を旅して回ることにした。
ミャンマーは、その最初の目的地であった。 

正直言って、入国する前はかなり緊張もしたし、なんとも重い気持ちがあった。 
21世紀に入っても、未だ開かれぬ、軍事政権の国。 
そして、アウン・サン・スー・チーが今も軟禁される国、ミャンマー。 

この国で、闇雲にお金を使うのはやめようと心に誓った。 
お金を消費することが、国の繁栄につながり、それが軍事政権を益々増長させることになってはいけない、と。 

ところが、そんな重苦しい思いを持って訪れた彼の地の印象は、空港に降り立って、ヤンゴンの町並みに差し掛かると共に吹っ飛んだ。 

町には、小田急バスや地方都市バスなど、日本の中古バスが、あちこち走っていて、それが私の幼少時代に見た原風景とオーバーラップして、郷愁さえ覚えたのである。 

不意をつかれる、とはあのことだと思う。


緊張していた心身に、その光景はかなり衝撃的で、実際、町に降り立って歩いてみて、その雑多な賑わいが、タイにもマレーシアにも似た、南国独特のものであることを嗅ぎ取った時、国の状態は如何なれども、国民とは何の関係もないことに初めて気がついた。 

実際そこから始まって、マンダレー、バガンと旅を続ける道中、そこで出会った人々は、私が10代後半から旅を初め、出会った人々の中で、最も純真無垢かつ、心の綺麗な人々だった。 

皮肉な事に、軍事政権によって、入ってくる情報や物資が限られたことにより、彼らが他の東南アジアの観光地のように、「人擦れ」することを防いだのである。 

それは、まるで鎖国時代の日本を見ているようでもあり、実際、彼らと話をする中で、彼らが非常に日本人の特質に似ていることにも気がついた。 

彼らは内気で寡黙であると共に、忍耐強く、時には激しく、その笑顔は非常に美しい。


そしてその裏腹に、彼らは厳しい環境で生きねばならぬことを強いられている。


政治について語ることを禁じられ、 軍政について悪く行ったものは、ことごとく特高に検挙され、収容所に入れられるビルマ人。
マンダレーの丘で私の目を奪ったものは、その丘から見る美しい夕日ではなく、その麓にそびえ立つ、異様に近代的かつ巨大な収容所であった。


私を案内してくれたガイドは、私の質問に一瞬顔を歪ませ、会話として成り立たないままに、それは夕暮れと共に掻き消されてしまった。


メールをチェックするために立ち寄った町のインターネットカフェで見たものは、「このサイトは軍事政権により、閲覧することを禁止する。」と書かれた真っ赤な警告であった。
ホットメールを開こうとしても、ヤフーを開いても、ウィキペディアもここでは見る事が出来なかった。


画面を前に、ここは一体、何をするところなのだろう?と一人苦笑した。


そんな苦境の中に生きてきた彼らが、時を経て、これから先どこへ向かうのか。
 
スー・チーさんの釈放が、どうか今度こそ、永遠のものとなりますように。 


http://www.youtube.com/watch?v=WEF-cqIUCdc






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ロミオとジュリエット Romeo y Julieta





2人(匹)の運命や如何に?
¿Cómo el destino de los dos?








 (朝の散歩の一コマより)



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2010年11月22日月曜日

クイズ quiz







さて、この家には、一体何匹の猫がいるでしょう?!

¿Cuántos son los gatos en la casa?

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今朝の一曲 Vol.4

                                          Casa Violeta (Tulum)




今週末、ここカンクンから南に1時間、Playa del carmenという町で、ジャズフェスティバルが
行われ、お友達と出掛けることになっています。

これはその中でも、一番楽しみにしているアーティスト。
ジャズピアノって実はとても好き。
http://www.youtube.com/watch?v=qmbbH-rxjNc&feature=related

ところでこの、Riviera Maya Jazz Festival、毎年ビーチで行われ、入場無料です。
去年は、なんと、あのHerbie Hancokも出演して、その生ライブを聴く事が出来ました。

このアーティスト、日本だったらブルーノートで大枚はたいても、入れなかったりしますよね?
それをビーチ沿いの、肉眼で見える距離で、お酒など飲みながら聴く、その感動といったらもう・・!

メキシコに住んでいると、たまにこういうサプライズがあったりします。

もしお近くにいらっしゃる方がいたら、是非聴きにきて下さいね。
カンクン往き最終バスは23時59分です。

http://www.rivieramayajazzfestival.com/2010/




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2010年11月21日日曜日

風呂についての考察・続

        Agua Cariente en Copan (Honduras) 2009 





数少なくないマレーシア・バリ旅を含めたシンガポール時代に強く感じたこと。 
それは”やっぱり、風呂って最高!”ということ。 

2001年にシンガポールに移り住み、自分専用のシャワーを浴びている頃には、そこまで感じなかった。 
それなりに清潔で、風通しの良い明るいアパートには、ご丁寧に2mの深さのプールまでついていて、週末には貸し切り状態で、一人、そこで本を読んだり寝そべったりして過ごしたものだ。 

ところが、サーフィンにのめり込むようになり、マレーシアの季節波では飽き足らなくなって、いよいよバリに足繁く通うようになった時、私はたまたま泊まった宿のバスタブの虜になり、遂にはその宿の常連となった。 

どんなに暖かい土地であれ、一日の大半を海の中で過ごせば、体はべたべたするわ、冷えきってしまうわで、お世辞とも心地よいとは言いがたい。 

そこへ待っているのが、お湯の豊富な宿のバスタブだ。 

バリというところは、宿の値段もピンキリで、安いところであれば一泊400円くらいで、朝ご飯付きの部屋が見つかることもある。 

しかし、私はこの、日本人御用達のサーファー宿を、最後まで手放すことが出来なかった。 

そして気付いてみれば、サーフィンは元より、そこの風呂に入りにいくことが、私のバリ往きの一つの楽しみになっていったのだ。 

更に滞在中、時間を見つけては一泊しにいくウブドの宿で、そのバルコニーに付いた屋外シャワーを、田んぼの風景を眺めながら浴びるのも、相当良かった。 

外で風呂に入るというのは、こんなに気持ちの良いものなのか、と改めて知り、将来は、屋外にバスタブの付いた家を設計して是非住もう!とさえ決めた。 

その夢は今でも変わってはいない。 
ただ、時間が掛かっているだけだ。(と、親切な皆さんは見逃して欲しい。) 

さてそうするうち、当初の計画とは裏腹に、今度はメキシコなどという、未開の地に住むことになった。 

そして来てみてわかったことには、ここの住居は、シンガポールやバリなどとは比べ物にもならず、風呂やプールどころか、ハリケーンの被害によって、雨漏りが日常茶飯の、全く驚くべき住環境であった。 

こちらの家作りは、暑さを凌ぐ為、密閉感が強くなっており、強い日差しを遮断するために、薄暗いことが多い家々の中で、うちは風通しが良いのがせめてもの幸運だった。 

真夏の暑い時などは、汗をダラダラとかきながら、どれほどシンガポール時代のコンドミニアム生活を懐かしんだものかわからない。 

けれど、本当に恋しかったのは、やはり、あの湯船に他ならず、それが証拠に、3年の滞在を振り返って、一番幸せだった瞬間は、と聞かれた時にすぐ浮かぶのは、ポールとの出会いでもなければ、サーフィンのメッカ、プエルトエスコンディードにいったことでも、バハカリフォルニアに行った事でもなく、それは、相棒のロケ先を訪れた際に立ち寄った、ホンジュラスの温泉でのひとときである。 

心からの安堵というのは、こういうことを言うのだろうなぁ、と感じ、自分はなんて日本人なんだろう、としみじみ思った。 

そしてそのあたりが転機だったようにも思う。 

自分は紛れもない日本人で、他の何者になることも、またなる必要もなく、今はたまたま国の外に居る日本人の血を持った旅人だ、ということに落ち着いたのである。 

ちなみにうちのシャワーは、性能が悪く、お湯が出ないことは日常茶飯で、相棒は、そんなことは一向にお構いなしで、さっさと水シャワーに入って行く。 

が、私はというと、水シャワーなら浴びない方がまだマシなので、家にある一番大きな鍋でお湯をぐつぐつと沸かしては、約2畳ほどのシャワー室にしゃがみ込み、沸かしたばかりの熱湯をタライにいれて、熱すぎず、さりとてぬる過ぎない程度まで水を増して、そのたった一杯のタライの水を、別のタッパーウェアで大切に掬い、ゆっくりと体に掛けながら、またそのお湯をタライに戻していく、という次第。 
しかし、その快感といったら、もう! 

端から見たら、何ともいじましい姿であることは、自分でも良く分かっている。 

しかし、ぬるま湯出し放題のシャワーを浴びていた時には感じなかった安堵感を、ただ、その場にただうずくまるだけで、どうしてそんなにも感じることが出来 
るのか? 

そのしゃがんだ姿勢が、農民時代の田植えの記憶を呼び起こすとでも言うのか? 
それとも、タライ一杯のお湯をチビチビと使い回すことが、元祖ケチ女のアドレナリンを刺激する? 

ちなみに、この夏、日本から買ってきた垢擦りで、シャワーを浴びながら体を擦っても、あまり何も感じないが、その場にうずくまって、おもむろに背中をごしごし擦ってみると、あら不思議。世界が突然ぱ〜っと開けたように快感になる。 


・・・という訳で、私の風呂への思いは、今後もまだ止むところを知らない。 

最終的にあちこち見て回ってお腹いっぱいになったなら、その時こそ、私は潔く帰国して、どこか鄙びた銭湯の番頭に落ち着きたいと密かに願っているのだが、あれって、どこで募集しているんでしょうね? 

もし誰か知っている人があったらそっと耳打ちして下さい。いや、まじで。






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風呂について考察

                                         Las Ranitas (Tulum)






私の目下の夢・・・それは、家にバスタブ付けること。 

私いつも思うんだけど、どうして他の国の人達は、湯船に入らずに平気なんだろう? 

そういう習慣じゃないから? 
それとも、一回経験したら、病み付きになる・・? 

近々の夢は、お風呂用の椅子をゲットすること。 

誰になんと言われてもいいの。 
狭いシャワーの、これまた小さな椅子にゆったり腰を下ろし、垢擦りで背中を擦っているところを想像しただけで、口元に微笑みが浮かんでしまうのです。



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2010年11月18日木曜日

日本人であるということ


                                                              Tokyo 2010




シンガポールに住んで頃の話だが、町を歩く日本人観光客の姿を眺めていて、つくづくと感じたことがある。

それは、私達日本人が、とても”独特”であるということ。

観光客というならば、他にもたくさんいるのである。
アジアの坩堝(るつぼ)といわれるだけあって、シンガポールは、いつも大勢の人で賑わっている。中国人、マレーシア人、インドネシア人、ベトナム人、そして西洋人と、色んな人が常に行き来する国。

ところがそんな彼らと行き会って、中国人かと思って話してみると、彼らはマレーシア国籍の架橋であったり、インドネシア人だと思うとマレーシア人、ドイツ人だと思うとオランダ人と、そのアイデンティティを特定するのが難しい。

ところが日本人は、そんな中にあって、いつも特別な存在なのだ。
なぜって、私達は大抵の場合、他のどこにもない、仕立てが良くて垢抜けたファッションに身を包み、独特なメークで肌を覆い、独特の「間」を持っているから。

女の子の中には、今の流行なのか、履き心地の悪そうな靴を履いて、ペタペタと音を立てて歩いていたりして、目を引くことこの上ない。

私達の持つ「間」、それは「間合い」とも呼ばれるのかも知れないけれど、それは国の外では、「隙」と認識されることもある。
もちろん私達はそんな事には気付かない。

だから、私達は、旅先で良く標的にされる。
なぜって、たいていの旅行者は2人組か、それ以上で行動するので、一人ではない安心も手伝って、ますますその「間」を全開にしてしまうからに他ならない。

彼らが、治安の良い香港やシンガポールに留まっている間は良い。
けれど場所が、より物騒なインドネシアやアメリカ大都市のダウンタウン、中米などの経済状態や治安が良くない場所に移動すれば話は別になる。

危なげなところに行けば行くほどに、我々は心許なくなり、そして思う。
「やばい、狙われないようにしないと」と。

ところが、どんなに隙を見せまいと体を固くして、無表情で歩こうが、通りで待ち構えるハイエナ達は容赦ない。

彼らは、その狡賢そうな目を光らせて、やれ、”Tomodachi”だの”Chotto Mirudake”などと言いながら、遠慮なしに擦り寄ってくる。

そして、こちらが拒絶すればするほどに彼らは接近距離を縮め、最終的には、やれ財布がなくなっていただの、法外な値段で買い物をさせられただのということになる。

後進国を旅した人であれば、恐らく一度や二度は、このような体験があるだろうと思う。

そんな体験を経て、旅先で同じように彼らに掛かって、立ち往生している若い同胞者を見ると、人ごととは思えずに、そのハイエナ達に、一言言ってやりたいと思うこともあるだろう。

私もご多忙に漏れず、何度かそんな思いをした。
そして同時に考えた。どうして日本人はそんなに隙だらけなのか、と。



**
時を経て、3年ぶりの帰国を果たした夏、私はひょんなことから、その答えを知った。

久しぶりの日本は、全てが素晴らしく、完璧に機能していて爽やかだった。

しかし何だろう?
町を歩いてて、どこかがスカスカする。

最初は、全てがあまりにも機能的で、うまく行き過ぎているこの国に、”遊び”がないのが原因だと思った。
が、通りを歩いているうちに、ハッと立ち止まった。

この町(その時私は東京に居た)には、野良犬が居ないのだ。

メキシコでは、3歩歩けば、野良犬に当たる。
暑い時期など、そこら中に犬が寝そべって居るので、避けて歩くのが面倒なくらいだ。

そういえば、私達が子供の頃、通学途中の道の途中には、野良犬が一匹や二匹はいた。

野良犬は怖い。

だから、彼らの姿を感知すると、一瞬怯みながらもテレパシーを送る。
”こっちに来るな・・絶対こっちに来るな・・”と。

更に、彼らの側を通る際、私達は小さい体に、出来る限りの威嚇を表わすことも忘れない。
そして無事彼らの先を通り過ぎ、角を曲がってから、初めてほっと胸を撫で下ろし、同時に自分にこうも呟く。

”よっしゃ〜、犬に勝ったぞ!”と。

それが、犬でなく、酔っぱらいのヘベレケおじさんのこともある。
でも、道理が一緒だということを、賢い私達はその頃までに学んで知っている。
なので、通りに差し掛かって彼を察知するや否や、私達はごく自然に、持っていた棒切れで、意味もなく道路を叩きながら、右から左に、ごく自然に移動することを忘れない。

こうやって私達は日々、自己防衛本能を磨いていたのだ、と思う。

いつの頃からだろう。 

電車を待っていると、ホームに電車が入るたびに、不思議な音楽が流れるようになった。 
最初は、なんてケッタイな音楽だろうと感じたが、次第に、それはただの無機質な”オト”になっていった。 

次にはアナウンスが聞こえてくる。 

その声は、”危ないから白線の内側に下がって下さい。”と親切を焼いてくれるが、それは往々にしてヒステリックにも響いてくる。 
それで私達は、黙って指示に従うことにする。 

やがて季節が変わり、夏がやって来る。 
私達は、待ってましたとばかりに海に山にと出掛けて行く。 

するとここにも親切な人が待ち構えている。 

笛を下げた監視員のお兄さんは、こちらの一挙一動を実によく見ていて、何か事ある度に、ピピッ!と笛を鳴らしてから、マイクロフォンでこう言う。 

”そこ、危ないから飛び込まないように。” 
”プールの脇を走らない!” 

人に迷惑を掛けるのが苦手な私達は、彼らの言いつけに従って、迷惑を掛けない範囲の中で楽しもうと心掛ける。 

そして夕暮れ時。 

楽しい一日を過ごし、あぁ、楽しかった、と余韻に浸っていると、どこからともなくサヨナラを告げる、蛍の音楽が聞こえてくる。 

マイクロフォンは告げる。 
”このビーチは6時以降は泳げません。忘れ物をしないように気をつけて帰って下さい” 

それでいそいそと身支度をして、流れに遅れないように、帰路につく。 
通りには夏季限定の臨時バスなども待ち構えていて、大勢の人をあっという間に近くの駅や町まで運んでくれ、あとには静寂な浜辺が残るだけである。 

親切はまだまだ続く。 

帰国時に病院に行く用事があった。 
そこで、最初に目に入ったのは、昨今の流行らしき、抗菌スリッパなる代物だった。 
その不思議な紫色の光に、私はしばし見入ってから、こう考えた。 

抗菌って、何の菌のこと? 
水虫? 
それとも、空気中に漂う、数限りない病原菌?? 

考えれば考えるほどに、私の想像力は留まるところを知らず、好奇心は、今すぐにでも発明者に、そのカラクリについて、話を聞きたい気持ちで一杯になれども、私の目的は、あくまでも診断であって、抗菌スリッパの解明ではないのである。 

それで、非常に気にはなりつつも、そのウルトラマンビームならぬ、バイオレットビームによって、処方されたらしきスリッパをいそいそと履き、受付で渡されたコップを片手にトイレに直行する。 

ところが、ここでも私の驚きは続いた。 
通常、息を止めることに慣れているはずの場所が、ここでは、まるでお洒落サロンのような空間に仕立てられるのだ。 

更には、快適を助長するかのようなたくさんのスイッチが、所狭しと付いていて、終いには、どれが洗浄スイッチなのかさえ分からずに、変なボタンを押したお陰で、へんなところから、ピューッと水が勢い良く出てくるという始末。 

っと、ウカウカしていては、日本国民であることさえ脅かされそうな勢いだ。 

しかし冗談はさておき、私達は、こんなにも快適で、安心で、守られた国で生まれ育ち、最近では、野良犬の恐怖に戦く必要さえないのだ。 

私達は、家の外に出掛けても、誤って電車に敷かれることもなく、目的地には何時に着き、海の、どこから先が危険か一目瞭然で、プールで泳いでも、その脇で足を滑らせて頭をぶつけることもなければ、帰りのバスの時間を心配してソワソワする必要もなく、この世に数千数万と蔓延るばい菌に、運悪く感染することもなければ、トイレの中でさえ、飛行機のビジネスクラスさながらのサービスを受け、要は、危機に瀕したり、危険の中で、この状況を如何に対処するか、といったようなヒヤッとする実体験を、生活の中から一切合切一切失ってしまったのだ。 

そして、そんな環境に慣れ親しんだ私達が、一歩国の外に出るとどうなるか? 

それは、この文章を頭から読み直して頂きたい。 
そして、こんなことを言うのも、自ら、あちこちで散々痛い目に合ってのことだということを。 

私は今までに、ありとあらゆる場所・場面で、たくさんの失敗をしでかし、舌打ちし、一方的に怒った後になって、あぁ、そうだったか、と後悔することが、数限りなくあった。 

中でも、ここ、メキシコでの生活は、私を少なからず強くした。 
彼らに何度翻弄され、打ちのめされ、がっくりと肩を落としてきたことか。 

けれど、国を占領され、植民地となった母国に攻め入った外国人に使われながら、生き延びる体験が、彼らをどれだけ粘り強く、かつ狡賢にしたか、私は身を持って知る羽目になった。 

また、そんな経験を通じて、思い出す事もあった。 

私が大好きなインドネシアの島では(そして他の多くの土地でも)、ローカルは自分の国に売っているたくさんのものが買えない。 

それを、他国からきた私たちツーリストが意図も簡単に買っているのを、彼らはどういう気持ちで見ていたのか。 

綺麗な服を着て優しく微笑み、きめ細やかな肌を持つ我々を、彼らがどんな眼差しで眺めていたか。 

その彼らが私達にアプローチを掛けて、幸運にも手中に入ってしまったとする。 
そうした時に、嬉しさと同時に、嫉妬心が生まれてきはしなかっただろうか? 
同じ人間なのに、どうして生まれた国が違うだけで、ここまで持っているものが違うのか、と。 

旅をした人の中には、心や身を傷つけられ、あるいは持っていた大切な何かを取られた体験があるかも知れない。 

でも、そんな彼らに、私達は何の文句が言えようか? 
知らぬまに、私達は人を傷つけてはいなかったか? 
無垢であることは、時として罪であると、私達はどこまで実感していただろう? 

私は旅を通して、自らを、そして自分の生まれた国を、見つめ直す機会を得た。 
そして知った。 

日本が、幸福にも(そして不幸にも)外界から離れた土地で、長い間、他の誰に邪魔されることなく独自の文化を育み、私達は、”持ちつ持たれつ”という信頼ベースの基に、全てを執り行ってきた、極めて稀な民族であることを。 

そしてその結果、私達は、人の言う事を良く聞き、疑う心を持たず、困っている人を見れば、手を差し出さずには居られないような、美しい心の持ち主になった。 

それは決して間違いではないけれど、同時に知らなくてはならないこともある。 

人から搾取することだけを考えて、生きて行かねばならないサバイバーが、今も、この地球上にはたくさんいる、ということも。 

私達が、どんなに恵まれた環境で育った民族であるか。 

どんなに美しい気候に恵まれ、その気候を土壌とする美しい文化に育まれ、言葉を失う事も(漢字さえ読めない架橋が、シンガポールには少なからず居る)国を分けられることもなく、どこかに捕虜として連れ去られることもなく(私が現在親しく付き合う女性は、韓国系のロシア人で、彼らの先祖はその昔、日本人の捕虜としてロシアに送られ、そこで終戦を迎え、祖国に戻る事なく残留した。)家族を目の前で殺される事もなく、豊かな教育を存分に受け、家族の、周囲の愛情を受けて、大人になることができたかということを。 

そんな私達に、この地球上で出来ること。 
自分が出来ることは一体何なのか? 

それを、真剣に考えなければならない時期に差し掛かっていると感じるのは、果たして私だけだろうか。 

大切なのは、回った国の数ではない。 
大切なのは、その旅で私達が何を学んだか、ということなのかもしれない。



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