2011年7月31日日曜日

ロシア人、やってくる



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その電話は、我々のいたスタジオに、突然掛かってきた。 


“今、カンクンに到着したんだけど、明日からの撮影の為に、機材を借りたい。” 



掛けて来たのはロシア人通訳と名乗る女性。 
しかし、どこの会社の、何の撮影かを名乗らない。 


果たしてここカンクンには、年間を通じ、色んな撮影隊がやってくる。 

それはある時には、アメリカのテレビ局、またある時には、カナダ人のカタログ用撮影、ある時にはフランス系のブランド会社、またある時にはイギリスのテレビ教育番組と実に様々だ。 


けれど、ロシア人というのは今回が初めてで、しかも、明日からの撮影だというのに、やれカメラは、やれクレーンは、ライトはと、撮影に必要な機材は殆ど持って来てない様子。 

通訳と言葉が今ひとつ通じないのか、相棒の声はそのうち、だんだんと大きくなり、 “いや、その機材はメキシコシティから取り寄せないと、ここにはない。”という応答から、しまいには、こう叫ぶ。 

“何しろ、名前を名乗ってくれないことには、機材は貸せないよ!明日11時にスタジオに来てくれ!!” 

そして電話を切り、顔を見合わせる私たち。 
一瞬間を置いて、私はおもむろにこういってみた。 


“ねぇそれ・・どっかのギャング絡みじゃないの?名前も名乗らないなんておかしくない??” 


相棒は相棒で、“カメラがないってこっちに怒鳴られても、困るんだけどさ。”と、まるで独り言のようにぶつくさ呟いている。 


しかし、世の中には不思議な団体もあったものだ。 

“もし、うちが貸さないっていったら、彼らどうするつもりなんだろう?機材の手配もなしに、人間だけ来るなんて、聞いたことないよね?”と、駄目出しをする私に、すでに頭痛のするらしい彼は、“それは彼らの問題だから、任せておけばいいよ。”と素っ気ない返事。 



そう。ここではこういうことが良くあるのだ。 
「一体、この人、どうするんだろう?」っていうことが。 

けれど、ここでは人のことを、いちいち心配していてははじまらないのだ。 

果たして、お互い、すっきりしない気持ちを抱えたまま、相棒は、早速、アシスタントに翌日用心棒役を「念のため」頼み、私は私で、取りあえず、言葉使いだけには気をつけるように言って、スタジオをあとにした。 


さて、その翌日。 


授業がある関係で、午前中、学校に行ったあと、その足で、スタジオに車を飛ばした。 

さぁて、一体どんなことになっているやら。 


駆けつけてみると、いるわいるわ。 

例の独特の雰囲気を醸し出した人々が! 

通訳の女性を入れて、総勢6名。 
皆、典型的なロシア人の風情。 

さりげなく、話しを又聞きする限りでは、彼らはモスクワの映像会社の人々で、昨今増えているお金持ちロシア人用のプロモーションビデオを撮影する為、来墨したらしい。 

しかし、この強面に、Tシャツと短パン、ビーチサンダルといういでたち。 
お世辞にも似合わない組み合わせである。 

そしてその中に混じり、身振り手振りで話すは、我が相棒。 

昨日までは、あんなに強硬姿勢だったのに、やっぱり、根は単純なのが、アメリカ人らしいところだ。 

言葉は違えども、同じ業界で働く彼らと実際に顔を合わせて、すっかり気をよくしたようで、こちらが心配して様子を見に来た事など、全く気付きもせずに、始終笑顔で、スタジオ中をご一行様と共に練り歩いては、あれこれ説明している。 

そしてその横には、彼の用心棒、メキシコ人のビクターと、おぉっと、普段は機材メインテナンス会社を営む、キューバ人のオスカーまでもが、いるではないか! 

そう、キューバとロシアは、同盟共産圏ということもあり、彼は、ロシアの大学に留学していた経歴を持つので、ロシア語がペラペラなのだ。 

都合、ロシア人ご一行に、アメリカ人1名、メキシコ人、キューバ人と日本人の私がチャンポンされ、スタジオ内はすでに熱気も高いが、まとまりというものは全く見受けられない。 

それぞれに、スタジオ内を勝手に歩き回るもの、相棒のコンピューターに向かって何かを検索し続けるもの、冷水機の水を出して、勝手にグビグビ飲むもの、ソファーにドンと腰掛けて、動こうとしないもの、通訳の役目を忘れて話しに花を咲かせるもの、質問しまくるもの、答えまくるもの、言葉を失って呆然と見守るもの、とその行動体系もバラバラだ。 

その上、軍団の6人中4人は、英語もスペイン語も全く出来ないときた。 

が、世の中良く出来たもので、機材の呼び名だけは、どうやら各国共通らしい。 

さかんに、“リフレクター”だの、“バラスト”だのという専門用語を連発し、自信たっぷりに、こちらにアピールしてみせるものだから、相棒はますます上機嫌になる一方である。 

さて、そうこうするうちに、レンタルする機材はあらかた決まったようで、今度は、値段の交渉が始まる。 

と、どこからともなく、“ノーノー!ローバジェット。ローバジェット!”の言葉が飛び交って、失笑してしまう。 
どこにいっても、こういう単語だけは、なぜか皆知ってるんだよなぁ。 

そして、交渉がまとまると、お金は明朝払うという約束し、一行は風のように去っていった。 


明日は朝5時から撮影らしい。 

スケジュールは・・市内のとある有名ホテルらしいが、果たして、何日間の撮影になのか、どういう組み立てなのか、詳細は未だ決まらぬまま。 

さて、我々のレンタル機材は元通りの姿で無事戻って来るのか? 
ロシア人アシスタントとして雇われた、ビクター、オスカーらの行く末は・・? 

先週に続き、息の抜けない週末になりそうな予感である。 


(続く) 
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2011年7月26日火曜日

ファンタジーの世界 Vol.2





先日の授業のあと、一人の生徒が、私の顔を見るや、こうつぶやいた。

”Kyokoさん、日本語の悪い言葉は、ぜんぶ食べ物ね。”



いわく、


「馬鹿」→Vaca : 牛

「アホ」→Ajo : にんにく

「タコ」→そのまま日本語で:タコ



馬鹿とアホは良く聞くからすぐに分かったけれど、3つ目のタコがわからなかったので、一瞬考えていたら、「ほら〜、花より男子で松本潤が良く言ってるでしょう〜。」と、解説してくれる彼女。


あっ、そっか!

確かに、彼の扮する道明寺司が、主人公つくしに向かって、「なんだよ、このターコ!」というシーンがあったっけ。

確かにタコって、人を揶揄する時に、使うよなぁ。
あ、しかし、それをいうなら、おたんこナスってのもあるぞ!
お、どてかぼちゃってのもどう?・・・と話題がずれちゃった。


しかし最近では、子供達に感化されて、コピーしてもらったDVDなので、少しずつお勉強(?)しているので、彼女の言わんとすることが理解できてほんとに良かった。

あ、ちなみにタコはスペイン語ではPulpoといいます。念のため。:)






2011年7月24日日曜日

ファンタジーの世界

                                         Lio (Oita, Japan)




いつもは控えめで、おとなしいシンシアが、授業中、突如むっくりと起き上がり、”Kyokoさん、これは何ですか?”と黒板に向かって、何かを書き出した。


突然の彼女の行動に息をのむ生徒達。






にんべんに・・・・






旁(つくり)の部分が書けずに、往生している彼女に、助け舟をだした。




”あ、もしかして「体」じゃない?こういう字?”


”いいえ、ちがいます。”


”あれ、じゃぁ、「作る」かな?”


”いいえ。違う〜。”


”え〜っと、じゃあねぇ〜・・あ、わかった!「何」!!”


”いいえ。いいえ!”


”えーっ?、じゃ、じゃぁ〜・・”






”ちょっとまって。”






それから皆で息を潜めて待つこと約20秒。
なんせ、彼女が自ら発言するなんて、一世一代のことなのだ。


そして苦心して彼女が書き上げたものは、にんべんに、山が逆さに書かれたものだった。








”あ〜!仙人の「仙」ね!なるほど!(ほっと一安心)でも、どこでこの漢字を見ましたか〜?”


”アニメで見ました。Kyokoさん、せんにんは、何の意味ですか?”


ウッと、思わず答えに詰まる私。


最近、生徒が腕を上げてきて、のっぴきならないことこの上ない。




”えーっと、そのぉ〜・・あ、わかったっ!あのね、仙人は、人間と神様の真ん中にいる人です。山でマヒコ(マジック)を使えるように、トレーニングしています。インドのグルみたいなものかな?あ、わかる?グルって?”


”は〜い、わかります〜。”


物わかりの良い生徒達に救われ、話題は仙人からアニメの話しへと移り、それ以上突っ込まれることもなく授業は無事終了した。


しかし、このシンシア嬢、朝に滅法弱いらしく、毎回微妙に遅刻して来ては、意識も朦朧と座っている。発する言葉はもっぱら、”とても眠いです。”と”お腹がすきました。”の二言のみ。


けれど、授業を理解していないかというと、そうでもない。


アニメ好きが高じて、語彙力も豊富、もともとおっとりした性格なので、普段は聞き役に回ることが多いが、半眼で授業を聞きながらも、彼女の頭の中はファンタジーでひしめいているらしい。


子供の日本語の世界は、実に奥深いのである。




本日のニューワード:http://ja.wikipedia.org/wiki/仙人

2011年7月21日木曜日

生き別れ・死に別れ

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昨晩ベッドに入って眠ろうとしたところで、ふとメギのことを思い出した。

メギは去年の10月、近くの原っぱで母猫とはぐれて泣いていたところを、別の猫を探していた私によって発見され、救出された猫である。
http://kyoko0504.blogspot.com/2010/11/me-llamo-megi.html

以来、うちの家族の一員となって、内猫から、外に一人で遊びに行けるようになるまでの期間を過ごした。

過ごした、と過去形で書いたのは、ご想像通りで、母の死により、2ヶ月間、家を空けている間に、彼は帰らぬ猫となったからだ。

恐らく、新しい、居心地のよい家を見つけたものと思われる。

非常に用心深い猫で、私以外の人間にはなかなか心を開かなかったし、別の人が、うちを訪れると、決まって家の片隅に隠れていた。

そんな猫だったから、私の不在中、相棒が私に取って代わって世話をやいたところで、何か満ち足りないものを感じていたのかもしれない。

今回の失踪に関する連絡を、相棒から受けた時、私は冷静だった。さすがに、自分の可愛がる猫がいなくなったのが、これで3回目ともなると(そしてそれはいつも私の不在時に決まって起こった)、嫌でも慣れてもくるもので、だから、知らせを受けた時、前回のようには取り乱さなかった。

もちろん、一抹の寂しさを感じたのは否めない。

帰ってすぐに日本語クラスの授業数が増えたり、撮影に狩り出されて、毎日息をつく暇もなく働いているのは、不幸中の幸いだったと思う。

けれどその反面、彼は私に取って、紛れもなく大切な、そして尤も可愛がっていた子供であった。

彼は、やんちゃで、ユニークな猫だった。

だから、ふと何かの手を止めた瞬間、一日が終わってほっと一息ついた時に、彼のことを思い出して、感傷的になるのは、ある意味仕方のないことだとも思う。

人間、そんなに簡単に割り切れるものでもないのだ。それが、自分の愛した対象であれば特に。だから、そんな夜には、私は自分を放っておくことにする。

それが、メギに対する追悼でもあるのだから。


                 **


若い頃に失恋をして、その悲しみから立ち直れずにいた時期があった。

彼に戻ってきて欲しい。けれど、どんなに待てども、彼は戻ってはこない。
典型的な失恋のパターンである。

憔悴する中、ある日ぼんやりと街を歩いていると、通りがかりに、占いの看板が目に入り、そこに吸い込まれるように入って行った。

正直、そこで何を言われたのか、今となっては殆ど記憶に残っていない。

けれど、占いとは別に、その、人生の酸いも甘いも噛み締めた経験を何度もしたに違いない年齢の女占い師が発した言葉が今も強烈に残っている。

いつまでも思いを断ち切れない、と呟く私に、彼女は、はっきりとこう言ったのだ。

”何をそんなに悲しむというの?あのね、あなたはまだ若いから解らないかもしれないけど、どんな出会いにも、必ず別れがあるの。一つは死に別れ、もう一つは生き別れ。
彼と死に別れでなかったことを、せめて感謝しなさい。会おうと思えばまたいつか会えるんだから。”

強烈な一言だった。

どんな出会いにも必ず別れの時が来る・・

それまであまり考えたこともなかったけれど、それが、恐らく本当であろうことは、希薄な経験ながらに容易に想像が付いた。

これまで意識しなかっただけで、仲の良かった友達と、ある日突然決裂して口をきかなくなったり、家族の引っ越しで、双子のように仲良していた友達と別れる羽目になったりと、別れは経験していたからである。

別れは寂しいけれど、悲しみではない。それは新しいドアを開け、次に進んで行くというサインに過ぎないのだ。

それまでメソメソしていた私の涙は乾き、あっけなく立ち直ることができた。


                   **



生き別れ、で思い出すことがもう一つある。

あれは19の春のこと。


進学する大学が決まり、今は亡き母と2人で、上京用の荷物をまとめた。

洋服に、布団袋に、思い出の品に、母は、自らの経験から、そして元来の要領の良さから引っ越しの達人で、口数は少ないながら、”こういう時はね、こうやってまとめるのよ。”と、荷造りのコツを教えてくれた。

そして、旅立ちの日、その一ヶ月後に、東京の下宿先に様子を見に来てくれることになっていたにも拘らず、彼女は、なぜか私だけをタクシーに押し込んで、自らは玄関先に佇み、タクシーで駅へと向かう私に向かい、大きく手を振った。

私の姿が見えなくなるまで。

小さく小さく、その姿が見えなくなるまで、彼女は私に向かって、手を降り続けていた。




あの時の胸の痛みを、私は今でも覚えている。

なんだか今生の別れの様に感じたからだ。

今にして思えば、それは彼女に取っての、儀式であったのかもしれない。

幾千もの愛情を注いで育て、危なげながらも巣立って行く、自分の分身に対する、別れの時。同時に、子離れの時。



それ以来、実家に戻るチャンスは何度となくあったけど、彼女はただの一度たりとも、私に戻って来てとは言わなかったし、その態度たるや、日本人の親としては、ドライ過ぎるんじゃないかとこちらが苦笑したくなるくらいに、実にサバサバとしたものだった。

そして、彼女はその態度を固守し続けた。

死に際にさえ、彼女は私の枕元に現れなかった。
人に迷惑を掛けることが大の苦手で、一人、さっさとあちらの世界へ旅立ってしまった。



                **



メギの失踪の知らせを受けた時、脳裏に浮かんだのは、なぜかあの日の母の姿であった。
そして悟った。

彼は独り立ちしたんだな、と。


赤ん坊だと思っていた彼は、私の心配も他所に、外に出歩くのが好きな猫へと成長した。
心配だからと、網を張っても、どこから出るのか、スルリと抜けて遊びにいってしまう。

所詮、野良猫上がりの猫なのだ。
そして、知人の言葉を借りれば、猫は自由な生き物なのである。

私は、過剰に心配すぎる自分を戒め、彼が自由を謳歌するのを黙認することにした。
私だって、そうやって育てられてきたじゃないか。


無論、メギと原っぱで運命の出会いをしてから今日まで、私もたくさんの愛を彼に注いで来た。

最初の1週間は、他の猫と隔離するために、作業室にヨガマットを敷き、ノミだらけの彼に薬を塗りながら、幾晩かを共に過ごした。

やせ細って、ノミにやられて目も開かなかった彼は、少しずつ、そして確実に育っていった。私が背中を曲げてしゃがむと、よじ上って肩に座り、私の顔をぺろぺろと舐めてくれた。

撮影続きで相棒がいない日に、寂しさを紛らわせるため、テレビをつけると、動く画面に向かって、二本足で立ち、右に、左にと参戦して、私を笑わせてくれた。

ほんとに可愛い猫だった。そんな彼と巡り会って、私は彼が独り立ちして、巣立っていくのを見届ける事ができた。


あの日の母の気持ちを、私は今、はじめて知ったのだ。

生きとし生けるものを愛することが、どんなに大切かということを。

そして、その対象を、あくまでも一つの個であると見据え、潔ぎ良く手放し、自らも、また一つの個に帰っていく、ということが、どんなに尊いかということも。

だから私は、彼らに言いたい。

ありがとう、そしてまた会おうね、と。


母も、メギも、姿こそないだけで、確実に私の中で生き続けている。




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※この文章を、先日2匹の愛猫を失った、L.AのEちゃんに捧げます。
ジュピちゃん、ゴンちゃん、たくさんの愛を、私たちにありがとう。
天国で二人、仲良くね。:)


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2011年7月20日水曜日

光の成すわざ

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帰国している間に会った友達に、”ブログで現地の食べ物の写真も見たい!”と言われて、とても新鮮に感じました。

そういえば、私、ブログで、生活に直接関すること、あんまり書いてないよなぁ、なんて。

あまり意識して書いてませんが、情報発信ってより、自分の好きなことを、何の脈絡も系統もなく書いてます。

そういう意味では、単なる暇つぶしくらいにしかならないだろうけれど、ま、それもご愛嬌ってことでお許し下さい。

ところで、先日まで参加した撮影の出来映えが、一部送られてきましたので、皆さんにご紹介したいと思います。

そう、お待ちかね、メキシコの食べ物の撮影です!











え、これだけ、って?
はい、これだけです、ごめんなさい。


しかもこの料理、ホテルで作られているものなので、一般の郷土料理とはだいぶかけ離れているから、今回もあまり参考にはならなかったかも。(苦笑)


しかし、こうやって結果を見る事が出来ると、勉強になることがたくさんあります。
そして、いつも感じることが一つ。


つまり、”光の調整の仕方によって、物はいかようにも見える(見せる)ことが出来るということ。


人物にしても、ブツ撮りにしても然り。


最初の頃は、”え〜、それって殆ど詐欺!?”って思うことがたくさんあって、要は、実物はどうであれ、カメラの中で綺麗にさえ見えれば、それは画像としてオッケーみたいな部分がある訳です。


更には、”カメラの好むアングル”とか、”カメラ映えのする人”とかいう言い回しがある通り、実際には、何の変哲もない人が、カメラ好きのする人で、モニターの中ではあっと不思議、急に映えて見えたりなんてことは実に良くあって、そこはまさにまやかしの空間。
不思議な世界があったものだと最初は驚いたものでした。


ま、何はさておき、これからも、まだまだたくさんの勉強が必要だ、とわかっただけ、今回は良しとしましょうか。

しかし、写真を、”光の描く絵”と表現した人がいましたが、ほんとにうまく言ったものですよね。


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2011年7月17日日曜日

日曜日

                                                    Santa Monica, L.A


今日は日曜日。

日本から帰国してから、ばたばたし通しで、初めてゆっくり休む日曜日だ。
ここのところ、メキシコの気候はというと、茹だるような天気で、もう暑いを通り越して、”危ない”感じ。

一歩外に出ると、モワ〜っと湿気が高く、不快指数120%。日差しが異常に強いので、木陰を通りながら、急いで車に乗り込むと、車内は摂氏50度は軽く行って、ハンドルは日光に照らされ、熱くて直には触れない。

エアコンが家の中で聞くのは朝と夕方だけで、昼間は、室内音を20度に設定しても、昼過ぎになると、壁を通じて熱さが伝わってきて、気付くと額を汗が流れている。

L.Aに行った時、屋外に出ると、爽やかで日差しも強いのだけど、一歩日陰に入るとひんやりとして、私にはちょっと肌寒いくらいに感じられたけど、ここではその真逆だ。
日陰なんかに入ろうものなら、途端に汗がダラダラと滝のように流れて来る。
湿気が籠って風が流れていないからだ。

そして、洗濯物を干しに屋上に上がると、日差しは限りなく強いのだが、風が通り抜けているので、逆に気温が低く感じられるのだから、面白い。

ところで今私は、ビザを切り替え中で、約1ヶ月間、国外には出られない。
最初それを聞いた時、”ま、別に行くところもないし・・”と思っていたけれど、でも熱さがこうも増して来ると、思考回路はぼんやりするわ、朝方、数時間働いただけで、午後の昼下がりには、一日の仕事をすっかり終えたように感じてくるわで、なんかこう、人生の大切な時間をやみくもに消耗しているような気にさえなってくる。

そして、私にはちょっとひんやりしすぎると感じられた、あのカリフォルニアの気候さえ、俄然懐かしくなってくるのだから不思議なものだ。

記憶によると、この熱さが続くのは9月の終わりまで。

あ〜、神様、どうか私に、カリフォルニアのロッジの仕事をお与え下さい。あ、あるいはL.A郊外のドッグウォークの仕事でもいい。

2ヶ月いたら、おとなしくこっちに戻りますから!

しかし、世の中に、一年を通して過ごしやすいところって、あるのかなぁ〜?


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2011年7月9日土曜日

やっと一息

先日、フランス人部隊の為に、家を見に行くと書きましたが、まだ、行けず終いでいます。
その訳はというと、一つには天気。

この時期、雨が多くて、さっきまで晴れ間が見えていたと思ったら、次の瞬間には雨雲が押し寄せて土砂降り、なんてことが続き、写真撮影をする状況に恵まれず、予定が伸び伸びになってます。

二つ目には、別の撮影が進行中だからで、これも、ノータッチのはずだったのに、気付けばやっぱり手伝ってます。

三つ目には日本語クラス。

帰ってくるや否や、クラスがなぜか増えていて、朝から出掛けることが多くなった関係で、洗濯物や洗い物は溜まりっぱなし、午後からは撮影を覗きに行き、そのまま夜半まで居残るパターンが続いたので、今朝の授業が終わって、溜まりに溜まった家事も、なんとか片付け、今、やっと一息ついてます。


ところで、今日はクラスの子供達に日本のお土産を持って行きました。
持って行ったものはこれ・・




            



去年、袋菓子を買って帰って、休憩時間に皆で分けて食べた時、一人だけ、配ったカントリーマームを食べない子がいて、”どうして食べないの?”?と聞くと、”妹にあげたいから。”と。要は、きれいな包装だったから、お土産にしたかったのでしょうね。そういう訳で、今年は小さくても、一つ一つが独立してる形のものを選びました。

さて、彼女達の反応はというと・・



皆、一つ一つを手にして、しげしげと眺める子、感嘆の声をあげる子、写真撮影をする子と、とってもうれしそう。いやぁ〜、よかった!

そして予想通り、実際に彼女らが食べたのは半分で、あとの半分は、小さな弟や妹にお土産として持って帰られましたとさ。めでたしめでたし。


ものが豊富とは、決して言いがたいこの国ですが、でも、こんな単純な駄菓子が、こうして喜ばれるのですから、嬉しい限りですよね。

小さな幸せとはまさにこのこと。

皆さんも、海外に出掛けるチャンスがあったら、是非、現地の人に、小さな幸せを分けてみて下さい。

明日は久しぶりのヨガリトリートで、体を酷使してきます!



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2011年7月6日水曜日

日常

                                      Se Renta (Centro de Pt. Mo)


日本やL.Aにいたことが、まるで嘘のように、メキシコの日常に戻っています。

毎日蒸し風呂のような気候が続き、午前中、ちょこっと用を足しただけで、”あ〜、今日も良く働いた”と思ってしまう体たらく。

町は2ヶ月前と同じままで、人も超同じ。
こんな、ダラダラと汗が出る町で、よく、皆お化粧してるなぁと感心したくなるくらい、女の人は相変わらずキメキメメイクで頑張ってます。

しかし、天気の成せる技って本当に大きいですよね〜。

L.Aに居た時は、毎日、ヒンヤリとする瞬間を感じるくらいに涼しくて天気も良く、(一般の人に取っては)快適で過ごしやすかったはずでしたが、ここ、メキシコにあっては、もう、毎日茹だるくらいに暑い・・

あまりに暑くて頭もぼーっとするわ、体もどことなくだるいので、知り合いのヨガ仲間にマッサージしてもらおうと思って電話してみるも、国(イギリス)に帰っていないんだそうな。

要は、この時期のこの猛暑を避ける為に、ここを脱出したんだって。
う〜ん、羨ましい!私だって選択があればそうしたいわい。

さて、そんな私が、ここのところ毎日お世話になっているのが、庶民の味方、”スタバ”です。

もう、冷房は効いてるわ、フカフカソファはあるわ、ネットは使えるわで、この時期は、どの店も大賑わい!

私も日頃のケチケチ根性を捨てて、この”つかの間の楽園”に連日逃げ込んでますが、今日は、なんだか人が少なかったので、やった〜!と思いきや、店のエアコン壊れてるし・・・

で、ただで出るのも悔しいので、現在額に汗しながら、熱〜いコーヒーを啜り、なかば朦朧としながら、このブログを書いています。

ところで、今日はご提案。

皆さんの中で、ヨセミテ公園行ったことある人いますか〜?

私、この場所にもうずーっと行きたくて、でも機会を持てないままでいました。

で、9月くらいに是非行きたいと切望中なのですが、どなたか、ご一緒に如何ですか?
独立心旺盛で、アドベンチャー好き、キャンプを問わない方、募集中。

え?なぜ、相棒と行かないかって?

はい、自営で仕事をする彼に、休みはありません。(きっぱり)
なので、私は勝手に一人、森のターザンになろうと思ってます。

さて、今日はこのままここで粘って、5時過ぎから一つクラスを教え、帰還します。
帰国中は日本語に浸りっきりで、もしかして、もうスペイン語も英語も頭から抜けちゃったんじゃないかと、密かに心配してたのですが、一旦戻ってきてみれば、結構大丈夫で、ほっとしました。

習うより慣れろってのは、まさにこのことですね。

食生活も、すっかりこっちモードに戻って、毎日、パイナップルやらマンゴやらモリモリ食べてます。

明日は、8月からくる撮影隊ご一行様の為に、家探しに行ってきます。
この撮影隊、名前を言えば誰でも知っているような媒体なんだけど、なぜか、クルー用のドミトリーのバジェットが、ひと月500ドル。

フランス人が質素倹約ってのは、知ってたけど、5人分で500ドルって一体どういうことですかね?

気になりついでに計算してみれば、それって、一人分のバジェットがひと月100ドルで、更にそれを30で割ってみると一日3ドル30セント!

一泊300円の宿が、この一大観光都市で、果たして見つかるのでしょうか!?乞うご期待!!

ってか、なぜにこんな面倒くさい仕事ばかりが、私のところ回ってくるのか非常に疑問ですが、ここはぐっと堪え、ヨセミテの夢実現に向けて、頑張ります。

日本は雨続きのようですが、皆様方にはお変わりなく?
暑い折、お体ご自愛下さいね〜。



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2011年7月2日土曜日

ご無沙汰してます

                                               Laguna (Q.Roo Mexico)

メキシコに帰ってきてからというもの、早や5日目。

書きたいことはたくさんあるのですが、なんせ、日本→L.Aという究極の文明地から戻ってきた為、今更ながらのカルチャーショックと、体を慣らすことに忙しくて、未だ落ち着きません。

あ、インフラもいつも通りにて、お風呂の湯は昨日無事復活。ネットの方は、悪天候の為、まだきちんと繋がってませんが、それにも増して、帰るや否や、相棒の抱える撮影に振り回されて、ネット屋に連絡するのは、一段落ついてからになりそうです。


ところで、日本もそうですが、L.Aって、本当に何でもある街ですね〜。皆さん、行った事ありますか?

日系のスーパーは、日本と全く変わらない状態で何でも品が揃い、日本の本屋あり、日本のケーキ屋あり(味が現地のとは全く違います。これは、メキシコも同じかな。)、大物の来るコンサート会場あり、ビーチあり、山あり、イケメンどころも盛りだくさん(あ、ゲイストリートだけど)で、本当に楽しめました。

過去3年の間に行けた外国と言えば、ベリーズとか、グアテマラとかホンジュラスとか、メキシコと、国のレベルが似たり寄ったりの土地ばかりだったので、私の住むこの街とは色んな意味で、真反対のL.Aでの滞在は、非常に刺激的、かつ、驚きの連続。

山から下りてきたサルというのは、もしかして、自分のことかってくらいに、キョロキョロは止まらないし、通りすぎる人は、みんな綺麗どころで、いやはや、なぜL.Aが人気の都市なのか、今更ながら頷ける気がします。

そういう訳で、メキシコの空港に降り立った否や、まず気候からして、全く違う訳です。

むこうが”爽やか〜”だとしたら、こっちは、”まるっきりの蒸し風呂状態”。
むこうの人が皆、”クール”としたら、こっちは、皆、”人間くさい”(アニマルチック、という噂もある。)
むこうの景色が、”整って綺麗”だとしたら、こっちは、”無法地帯”

今までは全く気がつかなかったけど、どうして、ここの街路樹は、何の秩序もなく、多種類のものが、好き勝手に伸び放題なのか、というようなことが突然目に入るようになり、そういう目で”改めて”見てみると、先進国のそれとは違うことばかりです。

今日は、相棒にくっついて、病院に行って来たのですが、病院一つにしても、国によって、あり方が全く違います。

例えばこちらでは、カップルで行った場合、診察室にも2人で気軽に入ったりします。これは、日本やアメリカでも、あるのでしょうか?

まずは、ドクターと握手を交わして、世間話を少々。
それからいよいよ診察に入るのですが、先生は親密に、そして丁寧に見てくれるし、こちらも、聞きたいことは遠慮なく何でも聞きます。

まぁ、一言で言えば、お互い余裕があるってことなんでしょうけれど、まぁ、何しろ(特に私の相棒は)よく喋ります。

そして、最初はかしこまって側で話を聞いていた私も、会話が長引くに連れて、だんだん手持ち無沙汰になり、完璧に話が脱線した頃には、勝手に診察室にある体重計で自分の目方を計ったり、診察用に使われた打腱器(ハンマーみたいなやつ)で、膝の真下を叩いてみたり。

恐らく、こんな行為、日本や他の先進国では許されないと思うけど、私の住む場所は、メキシコでも、田舎の方なので、かなり緩い感じで、色んな意味で、緊迫感とは、ほど遠いところにあるように感じられます。

そしてその反対に、日本では絶対に起こらないようなことが起こるのも、ここならではでしょうね〜。
今日は、久しぶりに学校に顔を出してきたのですが、戻ってきてご飯を食べようかと思いきや、なんと、自分の家の鍵が開かないではありませんか。

ここ2週間ほど降り続いた雨の為に、湿気を含んだドア(どんなドアだ?)に付いた鍵穴の部分が変になってしまったらしく、ガチャガチャとしばらくはやって見たものの、てこでも動かない様子。

仕方なく仕事中の相棒に電話を掛け、当たり障りのないように、聞いてみます。

”なんか、ドアの調子が悪いみたいなんだけど、もしかして、この鍵、私がいない間にテクニックがいるようになったりした?”

”あ〜っ!あのね、下の鍵は壊れてるんだよ。”


”あ、そうだったの〜。(内心の声:お主、なぜそれを出掛ける前に言わぬ・・)いや、開かなかったから、どうしたのかなぁと思って電話して見たのよ〜。”

”あ、あのね、ペドロに頼んで、鍵屋を呼んで貰ったら、すぐ来て開けてくれるはずだから。”

”はい、わかりました。そうします。”

う〜む、我ながら素晴らしい出来映え。

これが3年前だったら、まず、1.開くはずの自宅の鍵が開かない事に切れ、2.お腹を空かせていることに切れ、3.鍵が壊れていると知りながら、うっかりと忘れて出掛けてしまう相棒に爆切れし、要は、いくつ腸(はらわた)が煮えくり返っても足りなかったことでしょう。

また相棒に関しても同様で、帰国前は確実に私のものだったヘアブラシが、帰ってきたら、見るも無惨な形に成り果てて、居間の床に転がっていて、その変わり様を呆然と眺めていたら、そこに現れた彼が、”これで猫をブラッシングしてあげると、とっても喜ぶんだよ〜。”と、にこやかに教えてくれるなど、少なくとも2ヶ月前と、何ら進歩の形跡はありません。

とまぁ、こんな具合で、例を挙げればそれこそ切りがありませんが、今誰かに、「日本の裏側までやって来て、手に入れた最大のものは何ですか?」と質問されたら、いちばん最初に答えるのは、”開き直る術を手に入れたこと”と答えると思います。

要は、うまくいってない時に、それにいちいち腹を立てていては、切りがない訳で、ハプニングが起こった時に、それを楽しむくらいの余裕がないと、ここではやられっぱなしになって終わってしまうということ。だったら、開き直って、楽しむしかない!(?)

L.Aに寄った時、その何でも揃うこと、すべてが綺麗で、快適なことを心の底から享受しつつ、どこか自分には不似合いだと感じたのは、”ないこと”に慣れきった生活をしていたせいで、あまりにも”ありすぎる”ことに、落ち着かなかったのだと思います。

ちなみに、”クール”という言葉は、ここ、L.Aで生まれたものに違いない、と殆ど確信に近いものを私は感じました。

人の性格は、住む場所の気候に学ぶ、と何かの本で読んだことがあるけれど、砂漠のように寒暖の激しい場所に住む人々は、白黒はっきりさせる価値観を持ちやすく(例えば:目には目を、と言ったようなこと)、死んだら一切が終わってしまうことを解く絶対神を信仰し、逆に、日本のような穏やかで豊かな四季のある気候を持った島国では、人々は生まれながらにその防衛本能も希薄で、性格は、気候同様、きめ細やかかつ、移ろいやすいものになるのでしょうね。

そういう訳で、L.Aでは、クール、という言葉がぴったりな人をたくさん見かけたけれど、一歩日陰に入るとひんやりして過ごしやすい彼の地に比べ、日陰に一歩入れば、湿気と熱気で余計に汗の吹き出るこの場所において、”クールな人”は、例えあと300年待っても生まれないんじゃないか、という勘は、当たらずともいえども遠からじだと思います。

あ、でもこの街、先進国には決してない味があって、野生の勘を育てたりするのにはぴったりですから、最近、どうも人間力が落ちてるんじゃないかと心配される方は、特にお薦めです。是非に遊びにきて下さいね。:)


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