2011年4月2日土曜日

あの日



3月11日の早朝4時。私はいつもそうするように、起きあせにコンピューターを立ち上げ、コーヒーを片手に、mixiのサイトを一通り見た。

関西の友人が、サイトの中で、”関東のみんな、地震大丈夫だった?”と短いメッセージを載せていたけれど、さらりと読み過ごしただけで、その時は家を出た。その日、私はとあるツアーの2日目に同行する予定だった。

ホテルの駐車場に車を止めてお客様を迎え、6時に、我々日本人3人を含む10数名を乗せたマイクロバスは、目的地に向かって出発した。ロビーでお客さんが、”昨日、地震があったらしいですねぇ。”と話すのを聞いたものの、そんなに深刻なことが起きたとはまだその時は、知る由もなかった。

家族連れを乗せたマイクロバスは、子供たちの笑い声や、夫婦の楽しげな会話で和気あいあいと賑わっていて、そんな時、相棒から、日本で大きな地震があったみたいだという、メールが送られてきて、なんとなく気になって、普段は殆ど使わない、携帯のインターネットでYahoo Japanのニュースを開けて、自分の目を疑った。

そこには、陸前高田という町が流されて、少なくとも200人から300人が行方不明になっている、という見出しのニュースが載せられていた。

思わず声をあげ、隣に座るTさんに急いで携帯を差し出すと、それまで静かだった彼が、”あ、これ、妻の実家先だ。”と鋭く呟かれた。

咄嗟のことに、私も、もう一方のお客さん、Yさんも言葉が出なかった。

町から外れたところをバスは走っていたため、その後、アンテナが立っているところを見つけては、ネットにつないだが、被害はかなり大きなもので、津波も、ただ一カ所ではなかったこと、東京でもかなりの揺れがあったことなどがわかり、これは、大変なことが起きてしまったと、お二人が家族に向けて携帯メールを打つ横で、私はただ狼狽えることしかできなかった。

不安が胸に広がり、出先であることに苛立を感じもした。
沈黙、そしてまんじりともしない空気の中で、突如として、楽しいはずのツアーバスの中の、私達3人のところだけ浮かび上がり、まるで異次元にいるように感じられた。


”電波が繋がらない。”

そういって、携帯を諦めてバッグにしまいながら、”300人ということは、少なくともその10倍の被害が出たということだな。阪神の時の最初の報道もそうだったから。”と、Tさんがつぶやき、Yさんも、”うん、そうだな。”と同意した。

こんな状況の中で、祖国で起こった出来事を、冷静に話す二人の会話を聞きつつ、自分の無知や、ただおろおろとするばかりの自分の稚拙さを恥じ、見識の広い、人生の先輩でもある同胞者と一緒に居ることに心から安堵した。

言葉は出ないものの、3人の日本人が異国の地で、一緒にいることの連帯感を覚えた。


元々、このお二人は遺跡の取材目的で来られたVIPのお客様だった。
普段はガイドなどやったことさえない私が、偶然、教えている日本語学校経由で”他に人が居ないから”という理由の元で、急遽英語通訳(そう、スペイン語ができないので、英語の通訳として)雇われたのである。

正直、ガイドの経験もまるでなく、スペイン圏に住む私が、英語だけで、お客さんをうまくご案内できるかどうかは、自分でも疑心暗鬼だった。けれども、”人手不足”という理由がそこにあれば、例外として許されるであろうか?などと、自分を奮い立たせ、何しろ、私はその役を買って出る事にしたのだ。

ちなみに、これと時を同じくして、私には2つのオプションがあった。

一つ目は、瞑想のセミナーに参加すること。

これは、諸々の条件が合わないことで、残念ながら流れてしまった。

もう一つは、隣国で行われるパーマカルチャーのセミナーにボランティアとして参加する、というもの。

これは、瞑想を断念した後に、降って沸いた話しで、非常に惹かれたものの、急に学校を続けて休むことが躊躇され、残念ながら辞退することになった。

そういう訳で、3度目の正直よろしく、この話が浮上した時、”あ、今度こそ、本物かも。”と直感的に思ったのである。

だが、久しぶりにプロフェッショナルな日本人の方々と仕事をするに当たって、こんな災害に見舞われることになろうとは、もちろん予想だにしなかった。

もし、瞑想しに行く事にしていたら、フライトの延期が出来ないか、真っ先に代理店に問い合わせていたと思う。

パーマカルチャーにしても同じことで、理想の空間にいながら、現実に引き戻されて、情報もろくに入らないジャングルの中、家族は、友人は大丈夫か、と一人でどれだけ心配したかわからない。

バスは遺跡に到着し、我々3人は自転車に股がって、いち早く写真をとる為に、ツアーから外れ、鬱蒼と覆い茂るジャングルに開かれた細い一本道を、ゆっくりと進んだ。

そして、約5分ほどで大ピラミッドの麓に到着した時、そこに人は皆無で、朝日の射すその遺跡が、いつもより、心なしか神々しくそびえたっているのが、目に映った。

42メートルもある高い標高の遺跡を、一歩一歩、足下を確認しながらゆっくりと登り、頂上に到達した時、眼下には、360度、パノラマ状に広がるジャングルが広がっていた。

しばらく私達はその光景を無言で見つめ、Yさんはただ静かにシャッターを押し続けていた。

私は1200年もの太古に作られて、今も変わらず残っている遺跡の天辺にいて、眼下に広がるジャングルの光景に圧倒されている。

今この瞬間に、地球の裏側では、大勢の人が命を奪われ、家を流されたなんて、まるで嘘のように辺りはしんと静まりかえって、自分が今、ここにこうして存在していることさえが、幻のように感じられる。

当時、ここには5万人以上の人が、このジャングルの中に切り開かれた場所に、大きな集落を作って暮らしていたという。

今は、石造りの建物が残っているのみだけど、当時はこの麓一帯に、木を切って、葉っぱで天井を覆った簡素な家が、いくつも並んでいたのだろう。

通りには、ジャングルに狩りに行く男達が歩き、セノテに水を汲みに行く女達がいて、子供達が家を出たり入ったりして、遊んでいたのかもしれない。

人は今のように、語彙も豊富だったのだろうか?
それとも、必要なことだけを延べ、もっと口数少なかったのだろうか?

当時の人は、今のように感情豊かだったのだろうか?
笑ったり、怒ったり、泣いたり、自己表現していたんだろうか?

想像はいくら出来ても、それを確証するものは何もない。
なぜなら、今、ここには、何も残っていないのだから。

歴史は、たくさんの命を生んでは、消し、栄光を生み、盛衰とともに失くし、今現在も残って、変わらないもののは、何なのだろう?

失くなった命は、一体どこへ行ったのだろう?

風が吹いて、頬を撫で、通り過ぎて行った。

**

我々と同じバスのツアー客一向が、ようやくピラミッドの麓に到着した。
自転車を止めて、狭い階段を、バラバラと人々が登ってくるツアー客達。

ある者は我先にと息を切らせながら、またある者は一歩一歩ゆっくりと進み、登ってくる。

どの顔も好奇心に充ち、頂上に到達すると、ほっと安堵して喜びを露にし、眼下の景色を堪能する。

そう、きっと意味など、どこにもないのだ。

人は皆、人としてこの世に生を授かり、その命を全うし、そして去って行くだけなのだ。

その事実は誰にも平等で、だからこそ、私達は今、この瞬間を大事にしなければならない。

一瞬一瞬が宝物なのだ。普段、あまりにも当たり前すぎて、気付く機会もないのだけれど。

その日、私達がやったことは、与えられた仕事を全うし、岐路に着くことだけだった。
それがその日、私達にできる最大限のことだった。


**

あの日から、3週間が経過した今日、私は変わらず机の前に座り、こうしてパソコンを前に座っている。

多くの命が奪われ、今も不自由な生活を強いられる人が大勢居て、今や問題は原発の是非に取って代わり、毎日多くの議論がなされている。


地震以来、多くの人がインターネットで色んなコメントや討論をしているのを目にした。
自分も何か言いたかったけど、でもどうしても言葉が出て来なかった。

私が出来たただ一つのことは、亡くなった大勢の方の魂が、無事に天国に辿り着けるように、祈る事だけだった。

暗闇の中で救助を待つ人に、一刻も早く、助けが来る事を一心に願うだけだった。

自分に出来る事は本当にちっぽけで、何も出来ない事が本当に苛立たしくて、それでも私は、模索を繰り返しながら、与えられたこの瞬間を生き続けている。


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4 件のコメント:

  1. 今日タヒチではSOS Japan の募金活動のイベントがあり、これからお手伝いにいってきます。私は折り紙を教えるというとてもとても小さい事をしてきます。こんなに平和で暢気なことをしていていいんだろうかとも考えるけど、それで少しでも募金活動に役立てばやっぱりそれでもいいんだろうと、、、。
    世界中でkyokoさんのような思いを抱えた日本人が(いえ世界中の人が)生活しているのだろうね。

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  2. 私達の願いが、天に届けばいいね!

    昨日、元タヒチに住んでいた仲良しイタリア人夫妻の宿にお邪魔してきました。
    夜に満天の星空を見ていたら、流れ星が。

    一瞬のことながら、願い事を捧げつつ、とても幻想的なひとときでした。

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  3. ごぶさた!日本は本当に変わってしまった。見たことの無い景色が突然たくさんあらわれ、映画を見ているのかなとすら思う。映画みたいにスーパーヒーローが助けに来てくれるんじゃないかと思わざるをえません。

    目の前にあることを粛々とこなす。東京にいても今の僕はそれしかできない。近しい人で被災されたかたはいなかったけど東日本全体が程度の差はあるけれど被災して僕も被災したと思ってます。

    天災は受け入れるしかないけど原発は人災だし・・・

    電車に乗ると昼間は節電で車内灯が点いてなかったりしてトンネルとかに入ると暗くなって車内中の携帯のディスプレイの光がふわっと浮き上がります。日常のそんな景色が3.11以降の日本です。

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  4. JUN-JIさん:

    私は地震の起こった日を境に、日本がどんどん変わってくれたらいいな、と思ってます。あ、いい意味でね。なぁなぁになってた古い体制とか、要らないものとか、どんどんなくなって、どんどん柔軟になっていって・・。

    原発のことも、色んな意見があるようですが、個人的には、なくなればいいと思ってます。

    普段から不便なところに住んでるから、なんとかなるよって思ってます。:)

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