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しかしスタンスが変わるだけで、感じ方がこんなにも変わってくるのは、どうしてだろう?
住む国としてのメキシコは、厄介事が多い。
前にも何度か書いた通り、インフラが整ってないので、生活の基本部分が揺らぎやすく、ハプニングが実によく起きるので、落ち着いて暮らしにくいのだ。
けれど、住む事を辞めて、取りあえず旅して回ろう、と決めた途端に、身も心も軽くなって、この地が突然素敵な場所に写るののだから人の感覚なんてあてにならない。
町を歩けば、人々はにっこりと微笑みかけてくれる。
温かい眼差しに心がほぐれる。
道に迷って通りがかりの人に尋ねれば、人々は(例えそれが間違った答えであれ)親切に対応してくれる。
人々は大らかで、子供が底抜けに可愛い。
つい数日前までは、あんなにも孤独で、ローカルの顔を見ることすら嫌になっていたというのに、立場が変わるだけでこんなにも印象が違って来るのだから、人の感性なんてあてにならない。
そうなのだ。旅をしている間は、ある意味、どこにいったって楽しいのだ。
なんたって旅人は、そこに住む人々にとってお客様。どこに行っても、生活を成り立たせる為に、ツーリズムを生業にしている人は五万といる。
それに旅人には責任というものがない。
その土地に対する責任、社会的責任、家族に対する責任(ここが観光客と旅人の大きな違いかも)、その一切合切から解放された、実に自由気ままな存在なのだ。
私のように、息抜きに加え、どこかにあるはずの終の住処を探して歩いたり、旅しつつ、文章を書く、写真を撮る、情報を収集する、ものの買い付けをするなど、ダブル目的の旅も、最近では少なからずあるように思う。
そして、目的が加わるごとに、意味合いは少しずつ異なって来るように思う。
私の場合、行く場所ごとに、その町の気候は、人々は、物価は、治安は、などという、生活の目線で見る癖があって、他のツーリスタがピラミッドや遺跡を訪れている間、町中を歩き回り、Se Renta(貸家)の看板など見つけては、この家の間取りは?光は充分に入るのか?ネット環境は?近くにヨガスタジオは?などと、あれこれ想像しては、一人悦に入ってしまう。
家を見て回るのは昔っから好きだし、人の暮らしも、見ていて本当に飽きない。
ここ、サンクリストバルもご多忙に漏れず、訪れると楽しい町だ。
オーガニックレストラン、市場、パン工房、 アート工房、お洒落なカフェなどがコンパクトに詰められている。
物価も安く、色んな先住民が住んでいるので、彼らの村を一つ一つ訪れたり、彼らの手織りの衣装を見て回るなど、観光地として人気が高いだけでなく、外国人やアーティストがこの地にたくさん住み着いていることも頷ける。
ちなみに私がこの晩泊まったホテルは、前回のリサーチの中でも最も気に入った一件で、お椀の底の形をした町中の、小高い丘の上にある。
メキシコの建物の、そのほとんどが、灼熱の太陽を遮断するために、厚い壁に覆われた、薄暗いものが多い中で、このホテルは、部屋の正面に面した大きな窓から、眼下の町並みが見渡せ、ご丁寧に、リビングとベッドルームが分かれ、台所に冷蔵庫まで付いていてご機嫌だ。
また、建物の屋上に続く階段を登れば、そこはテラスとなっていて、椅子に座りながら、のんびりとくつろぐことができるという設計。
こんなすてきなホテルが、一泊400ペソ(約2400円)だから悪くない。
一人では退屈してしまうかも知れないけれど、さっそく友達も出来たところで、清香ちゃんを招待し、日が暮れるまで、おしゃべりに花を咲かせ、楽しいひとときを過ごすことができた。
こういう時、話し相手がいるって、本当にありがたい。
日が暮れたあとは、気温がぐっと下がったので、本を片手に早々にベッドに潜り込み、翌日はオアハカに移動することにする。
そう。何のかんのいいつつ、寒さにはどこまでも弱いのだ。
(続く)
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