昨日もまた眠れなかった。
”眠れない時は無理して寝なくてもいいのよ”
と言って励ましてくれた友人がいたけれど、それにしても、眠れない夜が幾晩も続くと、頭は重く鈍い痛みを伴って体の上に居座り続け、神経が張り詰めた体は、妙な緊張感を伴って、不快感がどこまでも広がっていく。
どうしたら、いいのか。
どこへ行けばいいのか。
自分に何ができるか、そして何がやりたいのか?
ここにはいられない。
何かが違う。
ここを出なければいけない。
でも何処へ?どうやって?
何かを始めなくては前に進まなくて、でも何をやっても間違いであるような錯覚に捕らわれて、結局は同じことをぐるぐる・ぐるぐると考えて続け、そして答えは一向にでない。
だから夜も眠れない。
どこにも行きようがない自分がいる。
いても経ってもいられなくなって、宛てもなく、街へ飛び出した。
自転車に飛び乗って、用もない路地を一つ一つ入って、明るくネオンが照らす街並みの、楽しそうに
行きかう人々の間をすり抜けて走っていった。
遠い昔にかつて過ごしたこの街も、もはや自分には馴染みのない場所のように、ビルまたビルで
ぎゅうぎゅうに押し詰められ、行きかう人々も、私には知る由もない若者ばかりだ。
ペダルに力を入れて、街を後にしてずっと漕いで、海の方角に向かっていった。
海際の夜道は、薄明かりのある倉庫が一つあるだけの、退廃した雰囲気が漂っていて、人気もなくどことなく薄気味悪い感じがする。
嫌な感じがして、今度は方向を変えて、近くの丘に向けて走っていった。春に、友達が写真を送ってくれた、桜の綺麗な丘だ。
急勾配の坂道を登っていって、鳥居をくぐると、そこには突然秋の気配が漂っていた。
虫の音がして、街には珍しい民家が立っていて、そして木が立ち並び、緑の香りがした。秋の香りだ。
暗い山道を、今度は展望台の方に向かって更に坂道を上っていくと、そこから先は家もなく、ただ木立だけが立ち並び、暗い夜道と私と自転車だけの空間だけが広がった。
しばらく漕いで、頂上に着いたとき、また、例の錯覚、”自分がどこにいるかわからなくなる感覚”に
陥った。
シンガポールの、Mt. Faborの丘の頂上に似ていた。
きっと、本物のMt.Faborも、美しい夜景を今日も照らし、そしてたくさんの明るく活気ある観光客で賑わっているに違いない。
帰りたい。でも、もう、引き戻せない。
私は、魂を向こうに忘れてきたのかもしれない。
先日、沖縄の友達としゃべっていたら、突然、「魂、戻って来い」という意味の沖縄の言葉を教えられ、”胸に手を当てながら3度唱えなさい”とアドバイスされた。
傍からみても、なんだか今の自分は、ちぐはぐに写るのだろうか?
下界に広がる景色を目の前に、そんなことをぼんやりと考えながら、振り返ると、頭上には、美しく、静かながらも存在感を持った月が、こうこうと、大地を照らしていた。
明るい月だ。
満月ではない、三日月なのに、とても明るい。
照らされた木々は月の明かりを受けて、うれしそうにそこに佇んでいるようにさえ見える。
その光景を見た瞬間、この月は、富士山で見たのと同じ、あの月だ、と感じ、それで、急いで、仲間達にメールを送った。
今は散り散りになってしまったけれど、貴重なひと夏の体験を共有した同士達だ。
1人、2人・・と返事が戻ってきた。
3人、4人・・今、外に出て、月を見ているよ、と返ってきた。
こういうことなのかもしれない。
私が探していたこと。
月をみて、”おーい”と呼びかけてみると、あちらからも、”おーい”と戻ってくる。
多分、その声は、街中や太陽が燦々と照った日中には掻き消され、届かないけれど、でも、いくところにいけば、はっきりと聞こえてくる。そんな声。
そんな感覚。
耳を澄ませれば聞こえ、目をよく凝らせば見えてくるもの。
坂を下り、かつて、私が子供の頃に自転車で走り回った公園を一周していたら、当時、大好きだった
ジャングルジムが、まだ、そこにいて、静かにこちらを眺めていた。
30年前の自分を知っている風景が、まだそこにあった。
(2006年10月04日)
.
0 件のコメント:
コメントを投稿