2013年11月29日金曜日

ランス爺さん




                                   Mr. Lance, photo by Noa 2013





ランス爺さんとの出会いは、週末に出向いたファーマーズマーケットの帰り、同じように、帰宅しようと、曲がり角に止まっていた
彼の車をヒッチハイクしようと、その窓をノックしたところから始まった。




“もしかして、コナの方に向かうところ?”

“いいよ、乗りな。”




こうして助手席に乗せてもらったランスと名乗る、見た目70過ぎの、痩せて長身の爺さんは、行き先を告げると、自分も丁度、
そこまで行くところだ、とうれしそうに言った。



“ファーマーズマーケットに行ったの?”


“そうだよ。ちょっと顔出して、買うものだけ買ったから、帰るところだったんだよ。人ごみは、好きじゃないんでね。”



笑顔が似合う、優しげな老人だ。




“朝、いるかと泳ぎに、今働いてる農園のオーナーとビーチまで行ったんだけどね。
でも、いなかったから、途中で下ろしてもらったのよ。


ね、いるかと泳ぐことについて、どう思う?
それって、彼らの邪魔にはならないのかな?”



“そうさなぁ、いるかが遊びたいと思っている間はいいけれど、カヤックで、彼らの中に割って入ったり、彼らを追いかけ回したりするのは
問題だよなぁ。


第一、ベイには人が多いだろう?


わたしは、敢えてその中に加わりたいとは思わないよ。かといって、泳いでる人たちを、どうにか出来る訳でもない。


ただ、彼らの行動が、いるかの心をいつの日か、完全に閉ざしてしまわないかと、わたしは心配なんじゃよ。”





爺さんと自分は、波長が合うなと、直感で思った。



“わしはな、人との関わりが苦手なんだ。だから隠れて山の上に生活してるんだよ。

でも、あんた方のような人に会えて、こうして話が出来てうれしい。あんた達が行こうとしている町の丘の上に、うちの農園があるんだ。
もし何だったら、見て行かないか?おいしいラテをごちそうするよ。”と爺さん。



二つ返事で連れて行ってもらうことにした。



果たして、山の手を登る事5分。


到着した場所に降り立って、私達は歓声を上げた。


空気が澄んでいる。それもこの上なく。


遮る木も何もない。


綺麗に刈られた芝生が一面に広がって、脇にはバナナやいちじく、オレンジ、パパイヤ、マンゴなどの果樹が植わっている。


                                       



















                                                                



























同じ農園であるにも拘らず、私達の滞在する場所と、土地のエネルギーがここまで異なるのは、どうしてだろう?


“昔、ハワイの王様が住んでいた場所らしいよ。ほら、あの城壁をみてごらん。”


確かにそれらしいものが残っている。

爺さんは、その昔ヨットの設計士だったという。

古いヨットを改築して作ったキャビンは、体を壊した友人が療養できるようにと、木材の部分だけわけてもらって、時間と労力を掛けて、
少しずつ作ったものらしい。




























アメリカ人の、創作能力には目を見張るものがある。

何もないところから、アイデアで何でも編み出してしまう。


彼のワークショップ(作業部屋)にも案内してくれた。



人付き合いの苦手な爺さんは、自分で何でもするという。


自ら家を建てたほか、業者に頼むとやきもきするからと、ソーラーパネルや水貯ねを取り付け、水道代や電気代は
払ったことがないという。

急勾配に植えたコーヒー畑を上り下りする為に作られた階段には、彼が、その昔乗っていた、ヨットの
サイドステーが取り付けられていた。


”もう年なんで、時間が掛かるんじゃよ。でもな、少しずつやるのさ。ゆっくりとね。”



敷地内を案内してくれた後は、いよいよ自宅に招き入れてくれ、ラテをごちそうしてくれるという。

中に入るやいなや、私達は、再び歓声を上げた。


家の中に、様々なお宝がたくさん詰まっていたからだ。



アジアの各地から集められた仏像。

チベット仏教の飾り絵。



家のライトは、昔彼が作っていたヨットから移した年代物だ。


古時計、大昔に使われていたらしき古トランク、薪ストーブ、一つ一つに味があり、そのどれもが美しい。














































物が捨てられないのだという。


“今は世の中、変わっちまったけどな。なんせ、ブルーカラーの仕事に就く人間がいなくなっちまったんだ。

今や皆んな、コンピューターの仕事さ。だけど、土にも触ったことのない子供が、一体どういう大人になるっていうんだよ。”


爺さんの顔が一瞬曇る。


自分は社会の流れについていけないのだと呟く。


幼くして母親を失くし、継母とうまくいかなかった為、13の年で家を飛び出て、理髪店で靴磨きをしながら
食いつないで生活したらしい。


職を転々としながら、やがて海軍の仕事にありつき、ベトナム戦争にいって、自分の予想とは裏腹に、生き延びてしまった。


“本土の土を踏んだ時にはな、天に向かって十字架を切り、地面に口づけしたよ。

ところがさ、バスに乗った瞬間、そこに乗っていた奴らが、凄い目つきで、俺を睨みつけるんだ。唾を吐きかける奴もいた。

ベトナム帰還兵は、社会のはみ出し者とされたんだ。あれは本当にショックだった。

それ以来、人とは拘らないように、隠れて生活しているのさ。”


彼の声は、興奮の為に声高となり、それでも、自分の人生は祝福されていたと、何度も繰り返す。


静かな丘に建つバルコニーの向こうには、水平線が、燦々と照る太陽に輝いている。


現実と幻想の狭間にいるかのような、静かな空間。


爺さんの入れてくれたラテは、甘く優しい味がした。


どの国にも、どの時代にも、社会の犠牲となった人がいる。














2013年11月27日水曜日

NIKKEI



                                                                                                                                                                     Big Island, Oct, 2013




ハワイ島に来ています。



この島を訪れたのには、いくつかの理由があるけれど、その一つが、自分と同年代の日系に会って、話を聞きたかった、ということ。


2006年にシンガポールから帰国した年、縁があって就いた仕事で、隣に座っていた女性が、以前に日系移民の担当をしていたことから、彼らについて、改めて知ることになった。


http://ja.wikipedia.org/wiki/日系人



日系という言葉こそ知れど、聞けば聞く程に驚くことばかりで、その前後にたまたま読んだ、ワイルドソウルという小説で、彼らの存在が、より一層深く胸に刻まれたことも、要因だったように思う。



私が住んでいたメキシコには、かなりの数の日系人がいて、話を伺う機会もあったし、顔かたちが似ている、韓国系ロシア人の子と仲良くなり、その話を聞いた時も衝撃だった。



彼ら韓国系ロシア人(血筋は韓国だが国籍はロシア)は、第二大戦中、当時統治していた日本軍により、労働力として連れて行かれ、終戦後、日本兵が引き上げる中、そこに置き去りにされた人々なのだという。



「ロシアでは韓国系なんて、ステータスがないに等しいの。私の親なんて、読み書きさえ出来ないわ。必死で働いて、そして未だに惨めな暮らしを強いられている。

私はそんな生活は耐えられない。けれど、この国ではチャンスがない。

だから、インターネットで彼と出会って、はるばるここまでやってきたのよ。」と彼女。


同じ年代の、美しい黒髪に切れ長の目を持ち、ビーチフロントの豪邸に住む彼女に、そんな過去があろうとは、日本、そして戦争が、そんな傷跡を残していたなんて、一体誰が知っているだろう?



いつの日からか、私の頭の中には、一つの言葉が反芻していた。

それは、自分のルーツ(血筋)について。


これは、旅を続け、また、自分が親を失って一人になった時、改めて浮上してきた言葉だった。



自分が、日本という場所に生まれた、紛れもない日本人であることは、自覚してきた。

しかし一体、その自分は先祖から、どんな血筋を受け継いたのだろう?


日本という国は、かつてはどんなところで、この先、どこに向かっているのだろう?


それから、他国に移住した日系人。


彼らの苦労は言うまでもないが、その子孫である、我々と同世代の4世5世は、自分自身のアイデンティティを、どのように捉えているのだろう?




全くの興味心だった。


けれどそれを、どうしても自分の目でと耳で確かめたかった。


偶然といってしまえばそれまでだけど、行く先行く先で、衝撃的な話を聞く度に、それを、そのままにしておけない何かを感じた。




どうして、彼らに興味を持ったのか、自分でもよくわからない。


ただ単に、同じ顔かたちの彼らに、興味を持ったのか。

それとも、彼らから「日系で良かった」という言葉を聞いて、愛国心を分かち合いたかったのか。

あるいは、同じ血筋でも、国を隔てることにより、どこがどう異なってきたのか、体感しかったのか。




***




目の前に、突然広がった光景を見た時、私は言葉を失った。



サーフポイントに行く道すがら、青い海を見下ろす丘の上に広がっていたのは、大きな日本の霊園だった。


太陽の明るい日差しを浴びて、そこに佇む、亡き先人の墓石の数々。


そのお墓の多くには、色彩鮮やかな南国の花が、ふんだんに供えられて、その場所を明るいものにしている。


遠く離れた異国の地で亡くなった、同胞者の方々----なんとなく寂しげなイメージとして植え付けられていた彼らの姿は、自分の勝手な先入観と共に、見事に叩き付けられた。


こんな綺麗な場所に、こうして今でも大切に守られているお墓の数々。

早朝にも拘らず、車で花を供えに来る老人の姿は、跡を絶たなかった。



ここに眠る人たちは、ひょっとすると、母国にいた時より幸せかも知れない。



一礼して、私はその場を静かに立ち去った。




























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2013年8月26日月曜日

苦しみ



Donguri Don-chan 2013.6






たくさんの痛みに溺れる。



住んでいた家を手放す苦しみ。


もはや私の一部となった猫との、しばしの別れ。


友人、そして故郷との別れ。


再びゼロになってしまうことへの恐怖。




この苦しさから逃れる、何か良い方法はないかと、しばらくもがき、悶々としていて、


ふと気がついた。



苦しみは、私達の敵ではない。



それは生きていることの、まぎれもない証であり、成長に必要な糧であり、


決してネガティブなことではない。





自分の胸の真ん中に、しばし居座った苦しみの感情を、捕まえ、認め、じっと見つめた時、


ふと肩の力が抜けたような気がしたので、ここに書き記しておきます。





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2013年3月11日月曜日

視る





知人に、世界中を旅して回る女性がいる。


日本を離れ10数年、行く先行く先で仕事を見つけては、旅を続ける彼女。
”板の上でも熟睡できる”、と豪語するも、”どうして日本に戻らないの?”という私の質問に、応えて一言。



”なまるから。”



物が豊富で、何一つ不自由を感じる必要のない母国。
帰る故郷のある有り難さ。


アフリカだけでも、単独で3周した彼女には、その有り難みが、人一倍感じられるのだと思う。

まるで修行僧だな、とその時感じたことを、今でも覚えている。



果たしてレベルこそ異なれど、私も同じような理由で、ここに留まっている。


基本的インフラの欠如に加え、欲しいものが簡単に手に入らない。
治安に、労働条件の問題。


働き者は日本人だけじゃないんだと、国を出て、はじめて気がついた。


日本に居た頃、自分が普通に享受していた、週二日の休み、有給(もし勇気を出せば)、労災に組合や保険など、後進国の企業にはあり得ない。


仕事中に胆石の激痛に倒れた同僚は、悪評高き、公立病院に担ぎ込まれ、3回に渡り、縦横斜めにメスを入れられた。



他に選択の余地がないのだ。



私達、先進諸国民のように、”恐ろしいから、プライベートの病院に行きましょう。”とは、言えないのだ、労働階級の彼らには。


表向き華やかなホテルの裏側では、ボールペン1本与えられず、長時間労働は当たり前、強制的に持たされた備品が壊れて弁償し、手違いで予約したツアー代を自腹で払い、それでも、他の職場よりはずっといい給料と待遇で、働く人々がいる。



今日も明日も、ただ黙々と。


そして、恐るべき事に、こんな悪しき条件の基で働くために、毎日遠方から、大勢の人が、夢を求めてやって来るのだ、この町へ。


そんな彼らの姿を見ながら、終わりのない戦いに挑む彼らの心境たるや、如何なるものかと思いを馳せる。



そして、理不尽と、不自由と、重圧の中、私達より、更に厳しい条件で生きる人が、この世の中には、圧倒的に多いという事実にも。



なまってはいけないと思う。


どこにいても、何をしていても、自分なりの方法で、常に目を見張り、世の中で、何が起きているか、見つめなければならないと思う。



厳しい目で、そして愛情を持って。


時間が許すなら、旅に出て(それが隣町でも)、自分がどんなに恵まれた環境に生きているか、是非、見つめ直して欲しい。特に子供達の世代には。



不自由さが、真に生きるということが、どういうことか、少しでも体験する機会を持てたなら、見えてくる世界が、異なってくるのかもしれない。






3月11日・日本人に取って、特別な日に寄せて。








追伸:昨日、食堂のテレビでは、2年前の映像が、ドキュメンタリーとして流れていました。同僚には、数々のお悔やみの言葉を受け取りましたので、皆さんにもお伝えしたいと思います。




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2013年1月24日木曜日

遠足




                           Lotus Flower, Punta Laguna






さて、日本にいる時間より、移動の方が長いという、恐るべし、今回の倍速帰国だったが、そんな中でも一日だけ、時間を作って贅沢をした日があった。


それは、前回の帰国から持ち越しになっていた、糸島ハイキング。


この糸島。九州は福岡の、西側の半島に位置する場所で、雰囲気的にいえば、葉山か、ここでいうところのTulumビーチ。




なんだか流れている「気」が、特別なのである。


ここに近づくに連れ、その気が澄んでくることが実感できる。



なぜそれがわかるかというと、彼これ7年前、日本に一時帰国した時、どうしてもサーフィン熱が収まらずに、市内から片道2時間掛けて、通っていたから。



そもそも、帰国が決まった時、知り合いの日本人には、”日本でサーフィンをするなら、車がないと絶対に無理だよ。”と言われていた。




しかし、いつものごとく、それは半分しか聞いてなかった。


”まぁ、なんとかなるだろう。”と思ったからである。



結局、待てど暮らせど、その「なんとか」が、どうにもなりそうにないので、最終的には、自分で自転車を漕いで行って、解決したのだが、そういう経緯もあったので、無事に到着した先で吸った海辺の空気は、格別に美味しかった。


そして、その時に顔見知りになった、とあるお店の女性に、会いに行こうと思い立った訳なのだ。




今回は、もちろん自転車もなく、また、自転車を漕ぐような気候でもなかったので、電車とバスを乗り継いで行く事にした。



たまたま、当時同じ職場で、隣り合わせに座っていたIさんという女性が、同行してくれることになったので、市内の公園内のカフェで待ち合わせをし、そこから、彼女の自転車に二人乗りで、まずは私の野暮用を済ませ、一旦彼女の自宅に戻って自転車を置いた。



それから、歩いて商店街を抜けて、地下鉄に乗り、その間も、ずっと積もる話に花を咲かせ、駅に到着したと思ったら、バスが1時間以上ないという。


それならば仕方がない。今度は近くの食堂に入り、そこでも始終話に花を咲かせ、思ったよりも時間が早く過ぎたので、再び駅前からバスに乗って、揺れること半時間。


地名が同じだったので、ここかなと思って降りた。


ところが、その先の道筋が良くわからない。結局、Iさんのナビゲーターを頼りに、田舎の美しい緑を眺め、途中で差し掛かった神社でお参りをし、小さな峠をえっちらおっちらと二人で越え、海の見える丘を下ったところで、いよいよ足が疲れたので、運良く通りかかった車に、乗せてもらうことにした。


そうして、やっとの思いで辿り着いてみると、その、思い出の場所は、すでにがらんどうになって、辺りはしんと静まり返り、人気もない。


自分の中では、ずっとあるはずだった場所が、なくなっていることに衝撃を受け、けれど、今まで散々繰り返し学んで来た宇宙の法則−−この世のすべてのものは、絶えず変わり続ける−−を思い出し、会えなかったのは本当に残念だったけれど、きっとあの元気な彼女のこと、この半島のどこかで、彼女の道を進化し続けているに違いない、と思い直し、少し休んだ後で、今度は来た道とは逆の、バス停に近い方の道を下って行った。


私は、目的を果たして気が済んだけど、付き合ってもらったIさんには申し訳なくて、せめてどこかでお茶でもと思って入ったお店が、実にユニークな店で、コーヒーの代わりに、新鮮な卵ご飯とお茶を振る舞ってくれるという。


ありがたくお代を払い、言われた場所で、セルフサービスの白ご飯の上に卵を割り、暖かいお茶を頂きながら、座った場所から、見るともなしにあたりを見回していると、壁に、こんな詩が飾られていた。




                 

                   
                 たね


                                谷川俊太郎






ねたね うたたね ゆめみたね


ひだね きえたね しゃくのたね


またね あしたね つきよだね


なたね まいたね めがでたね









                **
                 





お腹も満たされて、気分もほっこりしたので立ち上がり、お店に並べられていた無農薬の野菜や果物を手に取ったり、大豆が専用の機械で、きな粉に変身する様子を眺めているうちに、バスに乗る時間が近づいて来た。


それで、急いでお礼を言って店を出て、今度は、来た時より一つ前のバス停から、来たのと同じ道を、同じように駅まで揺られていった。今度は2人とも口数は少なく。



途中、夕日が、横に広がる景色を黄金色に染め、田んぼの向こうに沈んで行く様子が目に入った。

その様子を眺めていたら、なんだか、時が止まっているかのように感じられ、翌日、また別の場所に旅立つ自分の身の上が、不思議なことにさえ感じられる。


母国を離れることに、少々寂しい気もするが、無理を押して、ここまで来れて本当に良かった。




こうして、楽しかった一日は、無事終了した。







旅の形態にも色々とあるけど、私はこういうのんびり旅が一番好きだ。


徒歩、自転車、散歩、遠足。


ジグザグの道、デコボコ道、あぜ道、田んぼ道。




何が起こるかわからない。
そして、何かが起きたら、そこで立ち止まって考えてみる。
わからなければ、誰かに尋ねる。
困ったら、周りに助けを求めてみてもいい。


そうすると、いつも親切な人が必ず現れる。
人に話しかけることによって、ドラマが、出会いが、生まれてくる。



行き当たりばったりの旅って、思う程、難しいことじゃない。









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2013年1月21日月曜日

ある夜の出来事





                                 Michael, desde Frankfurt





知り合いがヒッピー村でコンサートをするというので、仕事が終わって速攻で駆けつけることにした。


村の入り口のところに差し掛かった時、ヒッチハイクをしている若い白人女性がいたので、車を止めてドアを開けると、乗り込んできたのは、ドイツ人女性であった。


ドイツも色々あるけど、聞けば旧東ドイツの人らしい。


”ベルリンの壁が崩壊した時のこと覚えてる?”と聞いたら、”覚えてる。とても悲しかった。”との回答。



おぉ、年がそんなに若くないらしい。うっかりドイツ人だと思って、前にも同じ質問をしたことがあるけれど、立派な成人に見える若者でさえ、”まだ物心付いてなかったから覚えてない。”なんていう答えが結構返ってきたりする。


自分は若いつもりでも、世代はいつのまにか交代しているのだ。



何しろ、当時のことを覚えているという貴重な人物に会えたので、うれしくて、色々と質問してみると、壁が崩壊して統一化した後、仕事を失う人がたくさんできて、今日に至るまで、色々と大変だったという。


おまけに、”昔の方が良かった。社会主義に取って代わった資本主義は、人々から多くのものを奪った。”とさえ言う。


てっきり統合されて、自由に物も手に入るようになり、皆、喜んでいるのかと思いきや、そうではない、というのが彼女の説。


曰く、旧時代は、物はそんなになかったけれど、当時の人々は日々楽しく、というのも、物がない分、コミュニケーションがより密接だった、というのだ。


”今では皆、見かけは立派な家に住むようになったけど、作り方が隔離されているから、周りとコミュニケーションを取らなくなったでしょう?それが真の豊かさとは、とても言えないわよね。”と彼女。



これには、ある意味衝撃を受け、ある意味納得もした。


というのも、以前にバックパックで訪れた、軍事政権下のミャンマーで、数々の規制や、思想の抑圧、他国との実質的な国交遮断や、アウンサン・スー・チー女史の長年に置ける軟禁など、悪いイメージしかなかったこの国に、一歩足を踏み入れてみれば、物や情報の氾濫がない故の、ある意味健康で爽やかな人々・・私達が遠い昔になくしてしまった何か・・を持った美しい彼らを目の当たりにしたからである。


もちろん、だからといって、言論の自由もない国の在り方に、賛同する訳ではない。


しかし、単純に反対も出来ない何かが、あの国にはあった。その複雑な胸の内を思い出したのである。



ちなみに、旅の途中である彼女が今滞在する、ヒッピー村のテント集落は、気に入ってる様子だ。


コミュニティのメンバーも、多すぎず、少なすぎず、ちょうど良い規模らしい。

エコビレッジを、理想の住居としたいと言うので、それだったら、同じヨーロッパ圏の、フィンドホーンという、その世界では有名なビレッジが良いのではと推奨してみたが、”あそこは大きすぎて派閥同士の揉め事が多すぎるから駄目。”と言う。


当たり前といえば当たり前だけど、まぁ、どこの世界に行っても、一筋縄ではいかないということらしい。


もしご興味がある方は、こちらが、「質の良い」エコビレッジだそうです。ご参考まで。



http://gen.ecovillage.org/




さて、コンサートそのものは、普段は聴く機会のない、エジプシャンハープや、大好きなシタールなどを聞くチャンスでもあったので、楽しかったけど、一つだけ躊躇したのが、最後に皆で立ち上がって踊るという場面。


私は、基本的に一人でいることが好きで、集団で、何か同じ事をしたりというのが、得意ではなのだ。


まぁ、もちろん、世の中そんなことばかりを行っていては生きていけない訳で、今のところは、普通に仕事して、生活している訳だけど、周期的に襲ってくる、「嫌で嫌でしょうががない病」や、「絶望感に打ちのめされる病」に掛かる度、”いや、私には、まだ続きがある。将来はエコビレッジに行って仲間に入れてもらい、心清らかに生きよう!”と自分に誓う私だが、ヒッピーブラザーズ特有の、優しい微笑みを称えるどころか、老眼進行による薮睨みで、目つきが著しく悪く、かつ、人と同じことが出来ない私を受け入れてくれるビレッジが、果たして存在するのだろうかと、昨夜蚊の襲撃にあった足をポリポリと掻きながら、ネットの繋がる快適な空間で、ぼんやりと考える、朝のひとときであった。





-終-


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2013年1月19日土曜日

明けましておめでとうございます




                                Ruinas de Coba, Maya 2012






皆様、明けましておめでとうございます。

随分と時間が経ってしまいましたが、今年もどうぞよろしくお願い致します。



さて、年末から年明けに掛けて、私は3つの国を跨越して帰国しました。
もちろん、より安く日本に帰る為です。




まずは大晦日。午後過ぎまで働いた後、即効で着替えてそのまま空港まで直行。


1年の最終日が終わる、ぎりぎり前にロス・アンジェルスに到着したものの、年末のバタバタで疲れ果てていた為、友人宅でそのまま就寝。



翌日元旦は、友人カップルとダウンタウンのジャパンタウンに、日本のお正月を楽しみに行く。

さすがは人種の坩堝アメリカの大都市。ここは一体どこ?!というくらい、日本の風景が繰り広げられており、そこらで、餅つき大会や獅子舞や、阿波踊りや、折り紙教室が行われていたのに感激。



また、それを見物する人はというと、在住の日本人、日系、ハーフ、その彼らの家族である外国人、観光客等々、本当に様々。


でも、こうして日本の文化に興味を持ってもらえるのって、うれしいことだなぁと、まるで主催者にでもなったような気分を味わう。



もちろん、大好物の鯛焼きも、きなこ餅も、肉まんも、手に入るものはすべて平らげ、近くのお寺にお参りに行けば、気分は上々。もう、このまま日本には帰らなくてもいいくらいの気持ちになったものの、そこは、苦労して手に入れた激安チケットもあるわけで、翌日は再び空港に戻り、一路上海へ。



実は、シンガポール在住以来、華僑にはすっかり慣れっこになっていたが、中国大陸は今回が初めて。


シンガポールの華僑を初め、香港人、台湾人、マレーシア華僑、インドネシア華僑、タイ華僑、オーストラリア華僑にベリーズ華僑と、中華系と言われる人々には、これまでも、多く接してきたけれど、性格が決してよろしいとはいえないシンガポーリアンさえ、一攫千金を求めて出向いた中国大陸で、同じ中華民族に、こてんぱんにやられ、財産を全て失った末に舞い戻り、仕方なくタクシーの運転手になった、というような話は、在星中、一度や二度ならず聞いたことがあった。


なので、私の頭の中には、知らず知らずのうちに、「中国大陸人=極悪人」という図式が出来上がっており、行く前から、かなり興味津々、一体どんなところだろう、是非この目で確かめてみたい、という期待が沸き起こっていたのであった。


行きのトランジットは、夕方着の翌朝乗り換えだったので、街中まで行く時間もなく、空港に近ホテルに泊まったのだけど、最初から驚きであった。


まずは思ったより近代的で、日本に近いせいか、ファミリーマートが進出して、そこで日本のものが手に入るという便利さ。


それに比べて、人々の様相はというと、やけに懐かしい感じ。というのも、この時代にこの髪型か〜、とか、そういえば、昔こんな格好してた人いるよね、というような、自分が幼少の頃に見ていた、当時の大人の姿が、あちこちにいるわけです。


一言で言えばダサい、けれど、なんだか素朴さが滲み出ている彼らには、ちょっと親近感を覚えたりして。


実際、彼らに質問を投げかければ、愛想はあまりないにしても、きちんと答えてはくれるし、またその答えがメキシコとは違って、ちゃんと的を得ているのに、軽い衝撃を受けもした。


というのも、心のどこかで、「メキシコ>中国」ではないかと想像していたことが、全くの間違いで、 完全に「メキシコ<中国」だったことに、ショックを受けたのかもしれない。


・・がそうはいいつつも、やはり途上国。日本みたいに、すべてが出来上がっている訳でない。


3ツ星ホテルに到着して、最初にロビーで気がついたことは、“あれ?暖房が入ってない?!”ということ。


受付の、若い中国人スタッフは、赤いコートを着たまま、カウンターの向こうに並んで、“ニイハオ!”なんて笑顔で言っている。


こ、コート着たまま仕事ですか?!って感じだが、まぁそれはよいとしましょう。


寒いのは苦手なので、チェックインを済ませた後、速攻で上の階に上がり、エレベーターが開いた瞬間に、またしても硬直。


宿泊階の通路にも、暖房入ってないではないか!


まさか・・と不吉な予感を胸に、部屋の扉を開けてみると、予感的中。


極感の痺れそうな寒さが、部屋に張り詰めている。


速攻で、壁にカードを差し、最高温度の強風にて部屋を温めるも、気温が低いせいか、なかなか部屋が暖まらない。


仕方がないのでシャワーを浴びることにし、お湯を出すも、とても熱いとは言いがたい温水が、少量出るのみ。


心を決めて、頭は濡らさないようにシャワーを浴び、温水を浴びても全く体温が上がらないまま、鳥肌を立てつつ、体を拭き、フリースを着たままでベッドにもぐる。うぅ~っ、いつもの苦行系!


そしてその翌日、今度は暖房で、カラカラに乾いた部屋を出て、朝食を食べに、再び極寒のロビーの端のレストランに行ったところで、目を見開く。


朝食だというのに、お粥を初め、焼きそばだの茹でとうもろこしだの、ガッツリ系の食事が、これでもかと言わんばかりに並んでるではないか。


なかでも私の目を引いたのが揚げ団子。

これは、私の大好物で、中にはアンコが入っている。


朝からこういうものを食べるのもどうかと思うが、試しに食べてみると、これがなんとも美味しい。


結局、他のものはそこそこに、こればかり調子に乗って8つも食べてしまった。


正月以来、餅三昧でラッキー!


その後、2時間弱で到着した日本が、思った程、寒いものとは思えなかったのは、上海の気温に比べて若干暖かかったのもさながら、強力な中華料理のせいではなかったと、誰が言えよう?


こうして、私の年明けは、なかなかの幸運に恵まれ、日本滞在も短いながらに充実して、無事、戻って来たのであった。


さて最後に、帰りのトランジットを含め、私が観察した中国・上海の模様をメモします。



 [街角編]


・    人々がやたらと元気。朝の7時、恐らくは氷点下にも拘わらず、人々はマフラーもせず、原付に3人乗りは当たり前。自転車組も寒空の中健在であった。


・ 日没後の街中は、かなり寒い。顔も凍りそうになり、しもやけになった手を掻きながら駆け込んだ店の、羊肉麺は極旨だった。

・ 街中で見掛けたアップルストア。もしやっ!?と思い、わざわざ中に入って、値段を確認してみたら、やっぱり全然安くなかった。アップル製品は、世界各国同じ値段らしい。

・ さすが個人主義の国。ピーク時に、原付同士が派手に衝突し、一方が転んでバイクが粉々に破損しても、止まって助ける者は誰一人いなかった。

・ マッサージの技術は、値段ばかり高い、アメリカ大陸のそれとは全く比べ物にならない。強い、ツボを得ている、そして安い。親指のDNAに、3000年の歴史が刻まれているのか!?

・ 焼き餃子は、日本の方が美味しい。

・ 「可口可楽(コカコーラ)」を街角で発見し、日本製、アメリカ製、地元メキシコ産と味比べをしようと、買ったまでは良かったが、うっかりとスーツケースに入れるのを忘れ、アメリカの税関で引っ掛かり、地団駄を踏んだ。

・ 街の人々は意外に親切。バックを担いだまま、適当にバスを乗り継ぎながら、観光していたら、色んな人が、入れ替わり立ち代わり、世話を焼いてくれたり、席を譲ってくれたりした。

・ カードで支払いをした後、意味もなく不安で、ちゃんと請求が来るのかどうか、落ちつかない。




[中国東方航空編]


・   事前チェックインシステムがない為、2時間前に空港に到着した時は、すでに長打の列だった。

・    L・Aからの便では、荷物が皆、やたらと多い。電子レンジや大型電気製品を運ぶ人多し。

・    アナウンスで、「お年寄りと子供連れの方はお並び下さい。」といった瞬間、全員が並びだした。

・    アナウンスはお年寄りと子供連れ、ファーストクラス、その他全員の3つの区切りしかない。

・    機内は広くて清潔だった。

・    スッチーは、意外にも小奇麗で親切。窓際で、狭くて嫌だと文句を言うアメリカ人らしき客は、他の席に変えてもらっていた。となりの白人は、何度も呼びつけては水をボトルこと頼んだり、飲み物も、一回に2つ頼むなどするも、嫌な顔一つせず、働き者であった。

・    食事は3回。結構いける。量は多くないが、青梗菜のゆで物など美味しい。①ごはん&チキン照り焼き&青梗菜に豆のサラダ。チーズケーキ ②フィッシュライス、シーザーサラダ、フルーツ ③サンドイッチ

・    飛行機の中でトイレに並んでいたら、後ろから子連れの親子がやってきて、当たり前のように私を押しのけ、その前に並んだ。

・    飛行機の座席でストレッチをしていたら、私の膝置きに、後ろの人の足発見。むかついたが、実は私も足のやり場に困っていたので、前の人が中国人であることを確認した上で、同じように膝置きに足を置いた。

・    長時間のフライトの後半、スクリーンにストレッチ体操の模様が流れると、皆、恥ずかしげもなく立ち上がって、一斉にポーズを取り出した。ラジオ体操並みに、大勢の人が同じポーズを取るその様子は、圧巻でさえあった。




皆様に取って、2013年が素晴らしい1年となりますように!





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