2012年8月22日水曜日

ちょっといい話



                                  Vespa, Montreal




ないものねだりとは良く言うが、自分にはない才能の一つに、写真をうまく撮る、というのがある。


若い頃、美しい写真を見ることに心を奪われた時期があって、週末になると、六本木の洋書を置いている本屋さんをはしごしては、そこに置いてある写真集を、片っ端から見て回っていた。


専門的なことは何一つわからないけれど、きれいな写真を見ていると、心が穏やかになり、また、くよくよと悩んでいたことが吹っ飛んだ。その、澄んだ世界が好きでたまらず、何時間も、音のない世界に居座っては幸せを感じていたのである。


その後、縁あって、写真を撮ることを職業としている知人、友人がたくさん出来、私が写真を撮ってみたいのだというと、自分の持っているニコンのF4などという、プロ仕様の機材を惜しみなく貸してくれる人まで現れたが、私がその道に、真剣に取り組むことは、結局なかった。


自分には、そんなセンスや、構図力、精巧なメカニックを使いこなせる頭脳、そして、何よりも、納得できるものが撮れるまで、何度も繰り返し、撮り続ける忍耐心がないことを、認めざるを得なかったのである。


かくして、私はひたすら見る側としての、写真愛好家にとどまった。
そして、それで幸せであった。


私には、写真の表現に最も必要なスキル・・現実と対峙し、目を反らさない、
その中に、自分のメッセージを惜しみなく入れこむ勇気がない


つまり、言いたいことをわざと遠回しに、勿体ぶりながら、のらりくらりと過ごすことで、ずばりと確信に触れることができないのは、自分自身に対する、自信の欠如にすぎない。


しかしまぁ、それも良かろう。


そのお陰で、自分とは全くタイプの異なる、物事をシャープにかつストレートに対峙する勇気がある友人と、会って話をする中で、背筋を正すことがたくさんあるからだ。


先日、知人のカメラマンと長話をする機会があった。


写真の持つ表現力ってすごいよね、と話す私に、彼女はこう解説してくれた。


映画は2時間の、小説には1冊分の時間が与えられている。
その中で、ストーリーは展開され、ドラマがあり、笑い、涙があり、それはクライマックスに達して、人々に感動を残して行く。

けれど、写真は違う。写真はその一枚の、それを見る側の一瞬の間に、メッセージが届けられなくてはならない。


何かを表現しようとすると、作品は自ずと、余分なものが切り落とされ、研ぎ澄まされたものとなる。


しかも写真は、撮る人の人間性そのものであり、その写真を見れば、その人がどういう人物で、何を表現したいかが、瞬時に見えてくる。


ちなみに、彼女は、現在のパートナーと出会った時に、人としての彼よりも、その写真を見ることで、表面には現れてこない、彼の心の深い部分に触れ、つまり、写真を通じて、彼という人となりを知り、それがすべての始まりだったのだそうだ。


それを話してくれた彼女の横顔は、とても幸せそうで、それは美しいポートレートとなり、いまでも私のまぶたに、深く焼き付いている。



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