2013年1月24日木曜日

遠足




                           Lotus Flower, Punta Laguna






さて、日本にいる時間より、移動の方が長いという、恐るべし、今回の倍速帰国だったが、そんな中でも一日だけ、時間を作って贅沢をした日があった。


それは、前回の帰国から持ち越しになっていた、糸島ハイキング。


この糸島。九州は福岡の、西側の半島に位置する場所で、雰囲気的にいえば、葉山か、ここでいうところのTulumビーチ。




なんだか流れている「気」が、特別なのである。


ここに近づくに連れ、その気が澄んでくることが実感できる。



なぜそれがわかるかというと、彼これ7年前、日本に一時帰国した時、どうしてもサーフィン熱が収まらずに、市内から片道2時間掛けて、通っていたから。



そもそも、帰国が決まった時、知り合いの日本人には、”日本でサーフィンをするなら、車がないと絶対に無理だよ。”と言われていた。




しかし、いつものごとく、それは半分しか聞いてなかった。


”まぁ、なんとかなるだろう。”と思ったからである。



結局、待てど暮らせど、その「なんとか」が、どうにもなりそうにないので、最終的には、自分で自転車を漕いで行って、解決したのだが、そういう経緯もあったので、無事に到着した先で吸った海辺の空気は、格別に美味しかった。


そして、その時に顔見知りになった、とあるお店の女性に、会いに行こうと思い立った訳なのだ。




今回は、もちろん自転車もなく、また、自転車を漕ぐような気候でもなかったので、電車とバスを乗り継いで行く事にした。



たまたま、当時同じ職場で、隣り合わせに座っていたIさんという女性が、同行してくれることになったので、市内の公園内のカフェで待ち合わせをし、そこから、彼女の自転車に二人乗りで、まずは私の野暮用を済ませ、一旦彼女の自宅に戻って自転車を置いた。



それから、歩いて商店街を抜けて、地下鉄に乗り、その間も、ずっと積もる話に花を咲かせ、駅に到着したと思ったら、バスが1時間以上ないという。


それならば仕方がない。今度は近くの食堂に入り、そこでも始終話に花を咲かせ、思ったよりも時間が早く過ぎたので、再び駅前からバスに乗って、揺れること半時間。


地名が同じだったので、ここかなと思って降りた。


ところが、その先の道筋が良くわからない。結局、Iさんのナビゲーターを頼りに、田舎の美しい緑を眺め、途中で差し掛かった神社でお参りをし、小さな峠をえっちらおっちらと二人で越え、海の見える丘を下ったところで、いよいよ足が疲れたので、運良く通りかかった車に、乗せてもらうことにした。


そうして、やっとの思いで辿り着いてみると、その、思い出の場所は、すでにがらんどうになって、辺りはしんと静まり返り、人気もない。


自分の中では、ずっとあるはずだった場所が、なくなっていることに衝撃を受け、けれど、今まで散々繰り返し学んで来た宇宙の法則−−この世のすべてのものは、絶えず変わり続ける−−を思い出し、会えなかったのは本当に残念だったけれど、きっとあの元気な彼女のこと、この半島のどこかで、彼女の道を進化し続けているに違いない、と思い直し、少し休んだ後で、今度は来た道とは逆の、バス停に近い方の道を下って行った。


私は、目的を果たして気が済んだけど、付き合ってもらったIさんには申し訳なくて、せめてどこかでお茶でもと思って入ったお店が、実にユニークな店で、コーヒーの代わりに、新鮮な卵ご飯とお茶を振る舞ってくれるという。


ありがたくお代を払い、言われた場所で、セルフサービスの白ご飯の上に卵を割り、暖かいお茶を頂きながら、座った場所から、見るともなしにあたりを見回していると、壁に、こんな詩が飾られていた。




                 

                   
                 たね


                                谷川俊太郎






ねたね うたたね ゆめみたね


ひだね きえたね しゃくのたね


またね あしたね つきよだね


なたね まいたね めがでたね









                **
                 





お腹も満たされて、気分もほっこりしたので立ち上がり、お店に並べられていた無農薬の野菜や果物を手に取ったり、大豆が専用の機械で、きな粉に変身する様子を眺めているうちに、バスに乗る時間が近づいて来た。


それで、急いでお礼を言って店を出て、今度は、来た時より一つ前のバス停から、来たのと同じ道を、同じように駅まで揺られていった。今度は2人とも口数は少なく。



途中、夕日が、横に広がる景色を黄金色に染め、田んぼの向こうに沈んで行く様子が目に入った。

その様子を眺めていたら、なんだか、時が止まっているかのように感じられ、翌日、また別の場所に旅立つ自分の身の上が、不思議なことにさえ感じられる。


母国を離れることに、少々寂しい気もするが、無理を押して、ここまで来れて本当に良かった。




こうして、楽しかった一日は、無事終了した。







旅の形態にも色々とあるけど、私はこういうのんびり旅が一番好きだ。


徒歩、自転車、散歩、遠足。


ジグザグの道、デコボコ道、あぜ道、田んぼ道。




何が起こるかわからない。
そして、何かが起きたら、そこで立ち止まって考えてみる。
わからなければ、誰かに尋ねる。
困ったら、周りに助けを求めてみてもいい。


そうすると、いつも親切な人が必ず現れる。
人に話しかけることによって、ドラマが、出会いが、生まれてくる。



行き当たりばったりの旅って、思う程、難しいことじゃない。









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2013年1月21日月曜日

ある夜の出来事





                                 Michael, desde Frankfurt





知り合いがヒッピー村でコンサートをするというので、仕事が終わって速攻で駆けつけることにした。


村の入り口のところに差し掛かった時、ヒッチハイクをしている若い白人女性がいたので、車を止めてドアを開けると、乗り込んできたのは、ドイツ人女性であった。


ドイツも色々あるけど、聞けば旧東ドイツの人らしい。


”ベルリンの壁が崩壊した時のこと覚えてる?”と聞いたら、”覚えてる。とても悲しかった。”との回答。



おぉ、年がそんなに若くないらしい。うっかりドイツ人だと思って、前にも同じ質問をしたことがあるけれど、立派な成人に見える若者でさえ、”まだ物心付いてなかったから覚えてない。”なんていう答えが結構返ってきたりする。


自分は若いつもりでも、世代はいつのまにか交代しているのだ。



何しろ、当時のことを覚えているという貴重な人物に会えたので、うれしくて、色々と質問してみると、壁が崩壊して統一化した後、仕事を失う人がたくさんできて、今日に至るまで、色々と大変だったという。


おまけに、”昔の方が良かった。社会主義に取って代わった資本主義は、人々から多くのものを奪った。”とさえ言う。


てっきり統合されて、自由に物も手に入るようになり、皆、喜んでいるのかと思いきや、そうではない、というのが彼女の説。


曰く、旧時代は、物はそんなになかったけれど、当時の人々は日々楽しく、というのも、物がない分、コミュニケーションがより密接だった、というのだ。


”今では皆、見かけは立派な家に住むようになったけど、作り方が隔離されているから、周りとコミュニケーションを取らなくなったでしょう?それが真の豊かさとは、とても言えないわよね。”と彼女。



これには、ある意味衝撃を受け、ある意味納得もした。


というのも、以前にバックパックで訪れた、軍事政権下のミャンマーで、数々の規制や、思想の抑圧、他国との実質的な国交遮断や、アウンサン・スー・チー女史の長年に置ける軟禁など、悪いイメージしかなかったこの国に、一歩足を踏み入れてみれば、物や情報の氾濫がない故の、ある意味健康で爽やかな人々・・私達が遠い昔になくしてしまった何か・・を持った美しい彼らを目の当たりにしたからである。


もちろん、だからといって、言論の自由もない国の在り方に、賛同する訳ではない。


しかし、単純に反対も出来ない何かが、あの国にはあった。その複雑な胸の内を思い出したのである。



ちなみに、旅の途中である彼女が今滞在する、ヒッピー村のテント集落は、気に入ってる様子だ。


コミュニティのメンバーも、多すぎず、少なすぎず、ちょうど良い規模らしい。

エコビレッジを、理想の住居としたいと言うので、それだったら、同じヨーロッパ圏の、フィンドホーンという、その世界では有名なビレッジが良いのではと推奨してみたが、”あそこは大きすぎて派閥同士の揉め事が多すぎるから駄目。”と言う。


当たり前といえば当たり前だけど、まぁ、どこの世界に行っても、一筋縄ではいかないということらしい。


もしご興味がある方は、こちらが、「質の良い」エコビレッジだそうです。ご参考まで。



http://gen.ecovillage.org/




さて、コンサートそのものは、普段は聴く機会のない、エジプシャンハープや、大好きなシタールなどを聞くチャンスでもあったので、楽しかったけど、一つだけ躊躇したのが、最後に皆で立ち上がって踊るという場面。


私は、基本的に一人でいることが好きで、集団で、何か同じ事をしたりというのが、得意ではなのだ。


まぁ、もちろん、世の中そんなことばかりを行っていては生きていけない訳で、今のところは、普通に仕事して、生活している訳だけど、周期的に襲ってくる、「嫌で嫌でしょうががない病」や、「絶望感に打ちのめされる病」に掛かる度、”いや、私には、まだ続きがある。将来はエコビレッジに行って仲間に入れてもらい、心清らかに生きよう!”と自分に誓う私だが、ヒッピーブラザーズ特有の、優しい微笑みを称えるどころか、老眼進行による薮睨みで、目つきが著しく悪く、かつ、人と同じことが出来ない私を受け入れてくれるビレッジが、果たして存在するのだろうかと、昨夜蚊の襲撃にあった足をポリポリと掻きながら、ネットの繋がる快適な空間で、ぼんやりと考える、朝のひとときであった。





-終-


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2013年1月19日土曜日

明けましておめでとうございます




                                Ruinas de Coba, Maya 2012






皆様、明けましておめでとうございます。

随分と時間が経ってしまいましたが、今年もどうぞよろしくお願い致します。



さて、年末から年明けに掛けて、私は3つの国を跨越して帰国しました。
もちろん、より安く日本に帰る為です。




まずは大晦日。午後過ぎまで働いた後、即効で着替えてそのまま空港まで直行。


1年の最終日が終わる、ぎりぎり前にロス・アンジェルスに到着したものの、年末のバタバタで疲れ果てていた為、友人宅でそのまま就寝。



翌日元旦は、友人カップルとダウンタウンのジャパンタウンに、日本のお正月を楽しみに行く。

さすがは人種の坩堝アメリカの大都市。ここは一体どこ?!というくらい、日本の風景が繰り広げられており、そこらで、餅つき大会や獅子舞や、阿波踊りや、折り紙教室が行われていたのに感激。



また、それを見物する人はというと、在住の日本人、日系、ハーフ、その彼らの家族である外国人、観光客等々、本当に様々。


でも、こうして日本の文化に興味を持ってもらえるのって、うれしいことだなぁと、まるで主催者にでもなったような気分を味わう。



もちろん、大好物の鯛焼きも、きなこ餅も、肉まんも、手に入るものはすべて平らげ、近くのお寺にお参りに行けば、気分は上々。もう、このまま日本には帰らなくてもいいくらいの気持ちになったものの、そこは、苦労して手に入れた激安チケットもあるわけで、翌日は再び空港に戻り、一路上海へ。



実は、シンガポール在住以来、華僑にはすっかり慣れっこになっていたが、中国大陸は今回が初めて。


シンガポールの華僑を初め、香港人、台湾人、マレーシア華僑、インドネシア華僑、タイ華僑、オーストラリア華僑にベリーズ華僑と、中華系と言われる人々には、これまでも、多く接してきたけれど、性格が決してよろしいとはいえないシンガポーリアンさえ、一攫千金を求めて出向いた中国大陸で、同じ中華民族に、こてんぱんにやられ、財産を全て失った末に舞い戻り、仕方なくタクシーの運転手になった、というような話は、在星中、一度や二度ならず聞いたことがあった。


なので、私の頭の中には、知らず知らずのうちに、「中国大陸人=極悪人」という図式が出来上がっており、行く前から、かなり興味津々、一体どんなところだろう、是非この目で確かめてみたい、という期待が沸き起こっていたのであった。


行きのトランジットは、夕方着の翌朝乗り換えだったので、街中まで行く時間もなく、空港に近ホテルに泊まったのだけど、最初から驚きであった。


まずは思ったより近代的で、日本に近いせいか、ファミリーマートが進出して、そこで日本のものが手に入るという便利さ。


それに比べて、人々の様相はというと、やけに懐かしい感じ。というのも、この時代にこの髪型か〜、とか、そういえば、昔こんな格好してた人いるよね、というような、自分が幼少の頃に見ていた、当時の大人の姿が、あちこちにいるわけです。


一言で言えばダサい、けれど、なんだか素朴さが滲み出ている彼らには、ちょっと親近感を覚えたりして。


実際、彼らに質問を投げかければ、愛想はあまりないにしても、きちんと答えてはくれるし、またその答えがメキシコとは違って、ちゃんと的を得ているのに、軽い衝撃を受けもした。


というのも、心のどこかで、「メキシコ>中国」ではないかと想像していたことが、全くの間違いで、 完全に「メキシコ<中国」だったことに、ショックを受けたのかもしれない。


・・がそうはいいつつも、やはり途上国。日本みたいに、すべてが出来上がっている訳でない。


3ツ星ホテルに到着して、最初にロビーで気がついたことは、“あれ?暖房が入ってない?!”ということ。


受付の、若い中国人スタッフは、赤いコートを着たまま、カウンターの向こうに並んで、“ニイハオ!”なんて笑顔で言っている。


こ、コート着たまま仕事ですか?!って感じだが、まぁそれはよいとしましょう。


寒いのは苦手なので、チェックインを済ませた後、速攻で上の階に上がり、エレベーターが開いた瞬間に、またしても硬直。


宿泊階の通路にも、暖房入ってないではないか!


まさか・・と不吉な予感を胸に、部屋の扉を開けてみると、予感的中。


極感の痺れそうな寒さが、部屋に張り詰めている。


速攻で、壁にカードを差し、最高温度の強風にて部屋を温めるも、気温が低いせいか、なかなか部屋が暖まらない。


仕方がないのでシャワーを浴びることにし、お湯を出すも、とても熱いとは言いがたい温水が、少量出るのみ。


心を決めて、頭は濡らさないようにシャワーを浴び、温水を浴びても全く体温が上がらないまま、鳥肌を立てつつ、体を拭き、フリースを着たままでベッドにもぐる。うぅ~っ、いつもの苦行系!


そしてその翌日、今度は暖房で、カラカラに乾いた部屋を出て、朝食を食べに、再び極寒のロビーの端のレストランに行ったところで、目を見開く。


朝食だというのに、お粥を初め、焼きそばだの茹でとうもろこしだの、ガッツリ系の食事が、これでもかと言わんばかりに並んでるではないか。


なかでも私の目を引いたのが揚げ団子。

これは、私の大好物で、中にはアンコが入っている。


朝からこういうものを食べるのもどうかと思うが、試しに食べてみると、これがなんとも美味しい。


結局、他のものはそこそこに、こればかり調子に乗って8つも食べてしまった。


正月以来、餅三昧でラッキー!


その後、2時間弱で到着した日本が、思った程、寒いものとは思えなかったのは、上海の気温に比べて若干暖かかったのもさながら、強力な中華料理のせいではなかったと、誰が言えよう?


こうして、私の年明けは、なかなかの幸運に恵まれ、日本滞在も短いながらに充実して、無事、戻って来たのであった。


さて最後に、帰りのトランジットを含め、私が観察した中国・上海の模様をメモします。



 [街角編]


    人々がやたらと元気。朝の7時、恐らくは氷点下にも拘わらず、人々はマフラーもせず、原付に3人乗りは当たり前。自転車組も寒空の中健在であった。


・ 日没後の街中は、かなり寒い。顔も凍りそうになり、しもやけになった手を掻きながら駆け込んだ店の、羊肉麺は極旨だった。

・ 街中で見掛けたアップルストア。もしやっ!?と思い、わざわざ中に入って、値段を確認してみたら、やっぱり全然安くなかった。アップル製品は、世界各国同じ値段らしい。

・ さすが個人主義の国。ピーク時に、原付同士が派手に衝突し、一方が転んでバイクが粉々に破損しても、止まって助ける者は誰一人いなかった。

・ マッサージの技術は、値段ばかり高い、アメリカ大陸のそれとは全く比べ物にならない。強い、ツボを得ている、そして安い。親指のDNAに、3000年の歴史が刻まれているのか!?

・ 焼き餃子は、日本の方が美味しい。

・ 「可口可楽(コカコーラ)」を街角で発見し、日本製、アメリカ製、地元メキシコ産と味比べをしようと、買ったまでは良かったが、うっかりとスーツケースに入れるのを忘れ、アメリカの税関で引っ掛かり、地団駄を踏んだ。

・ 街の人々は意外に親切。バックを担いだまま、適当にバスを乗り継ぎながら、観光していたら、色んな人が、入れ替わり立ち代わり、世話を焼いてくれたり、席を譲ってくれたりした。

・ カードで支払いをした後、意味もなく不安で、ちゃんと請求が来るのかどうか、落ちつかない。




[中国東方航空編]


   事前チェックインシステムがない為、2時間前に空港に到着した時は、すでに長打の列だった。

    LAからの便では、荷物が皆、やたらと多い。電子レンジや大型電気製品を運ぶ人多し。

    アナウンスで、「お年寄りと子供連れの方はお並び下さい。」といった瞬間、全員が並びだした。

    アナウンスはお年寄りと子供連れ、ファーストクラス、その他全員の3つの区切りしかない。

    機内は広くて清潔だった。

    スッチーは、意外にも小奇麗で親切。窓際で、狭くて嫌だと文句を言うアメリカ人らしき客は、他の席に変えてもらっていた。となりの白人は、何度も呼びつけては水をボトルこと頼んだり、飲み物も、一回に2つ頼むなどするも、嫌な顔一つせず、働き者であった。

    食事は3回。結構いける。量は多くないが、青梗菜のゆで物など美味しい。①ごはん&チキン照り焼き&青梗菜に豆のサラダ。チーズケーキ ②フィッシュライス、シーザーサラダ、フルーツ ③サンドイッチ

    飛行機の中でトイレに並んでいたら、後ろから子連れの親子がやってきて、当たり前のように私を押しのけ、その前に並んだ。

    飛行機の座席でストレッチをしていたら、私の膝置きに、後ろの人の足発見。むかついたが、実は私も足のやり場に困っていたので、前の人が中国人であることを確認した上で、同じように膝置きに足を置いた。

    長時間のフライトの後半、スクリーンにストレッチ体操の模様が流れると、皆、恥ずかしげもなく立ち上がって、一斉にポーズを取り出した。ラジオ体操並みに、大勢の人が同じポーズを取るその様子は、圧巻でさえあった。




皆様に取って、2013年が素晴らしい1年となりますように!





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