2012年5月30日水曜日

海の物語 Vol.5




                                         Ankor Wat, Cambodia 2004





誰に取っても、忘れられない光景はあると思う。



私の場合は、イルカと遭遇したこの出来事がそうであり、帰国後に一夏を過ごした、富士山で見た光景‐‐‐仕事が終わった後に、トレーニングを兼ねて、山頂まで昇り、日没後の暗闇の中、ヘッドライトだけを頼りに、砂の舞う急勾配の砂利道を、8号目の山小屋まで戻った体験。周りは完全な無音・無光で、それは孤独や恐怖というよりはむしろ、宇宙と一体化したような、不思議な体験だった‐‐‐や、レースが始まる直前の緊張感‐‐‐オーストラリア凱旋にて、自分の無力さを思い知った後、それを克服すべく、オフシーズンに筋肉の強化の為、ボート競技を始めたのだが、ふたを開けてみれば、それはサーフィンよりも過酷なもので、わずか3分のレースのために、長い地道なトレーニングを重ね、またその短い競技時間に全身全霊を掛けねばらならかった。



そう、脳裏に焼き付けられた光景は、いつも秒単位の出来事なのである。
それは、瞬間、そして瞬間の細切れで、けれど、それがそこだけを大切に切り抜いた写真のように、自分の頭の片隅に、いつまでも鮮やかさを失わずに、蓄積されているのだ。




誰しにも、そういう体験は少なからず、あると思う。



それは、学生時代の、部活動の大会の一瞬であるかも知れないし、運命の引き合わせに寄って、誰かと出会った瞬間かもしれない。


あるいは、自分の子供となる生命体が、産道を通って、この世に生をあげた瞬間かも知れないし、 長い夜を過ごした後に見た、朝焼けの光景かもしれない。


今、私たちが生かされているこの人生は、そんな一瞬一瞬の繰り返しであり、ドラマであり、それを、御座なりに過ごしてはいけないと思う。


人が、本気で何かに取り組んだ時、宇宙はとてつもない力を貸してくれるのだということを、私は、自分の体験から学び知った。



へなちょこなりに、当時自分が、片っ端のサーファーになれたのも、私の通ったビーチの人々が、人間味に溢れ、暖かで、”よし、行け!”と波を分けてくれ、また、ぶっ通しで海に入って上がって来ると、長老がちゃんとそれを見ていて、拍手で迎えてくれたからである。



皆、私が私の名前を呼んでくれて、私も彼らの名前を呼んだ。



週末が近づくと、誰彼となくメッセージが入って来ては、その時集まったメンバーで一緒にフェリーに乗り、現地でドライバーを捕まえては(これはなぜか、マレー語もろくに出来ない私の毎回の仕事だった)、車にぎゅうぎゅう詰めになりながら、今日の波は一体どうだろう?と期待と不安を胸に、ポイントに向かった。


ボート競技では、遊びとはいえ、それまで毎週海に入っていたことが功をなして、大会のメンバーに入れて貰えた。


そして、そこで受けた体験は、私のそれまでの人生観を大きく覆すものだった。


コーチ陣は、ひたすら我々を励まし、褒め讃え、そして信じてくれたのだ。


それまで、非難されることこそあれ、人に褒められたことのなかった自分には、そのような方法がなんとも居心地悪く、時として苦痛ですらあった。



けれど、トレーニングが進むにつれ、それに没頭するようになり、徐々に彼らの言葉を受け入れられるようになった頃、何かが降りてきたかのように、それまで、自分には絶対無理だと思っていたことが、次々と出来るようになっていったのである。



実はイルカの群れに出会ったのと同日、私はロングボーダーに当てられた。



ボードが頭に当たった瞬間、”あ、やられた。”とすぐに分かったのだが、ぶつけた本人は、”君がそんなところにいるから悪いんだろう。血も出てないから大丈夫。”と言い残して、さっさとどこかへ消えていった。


その直後に、頭から血が滴って海面を染め、他の、多数いたサーファーの間をくぐり抜けながら、私は岸へ戻るため、急いでパドルした。



血に濡れた私を見て、地元のサーファーは目を丸くしたり、揶揄するように笑ったりといった具合であったが、そのうちに段々気分が悪くなって来て、やばいなと思っていると、こちらに向けられたたくさんの視線の中に同じ塾の生徒がいたかと思うと、彼女は悲鳴を上げ、こちらを指差して、パニックに陥りだした。



と、その時、どこで私を見つけたのだろう。どこからともなく、さやかちゃんが寄ってきたかと思うと、”あ〜らら、やっちゃったね〜!”と明るい声をあげ、と私にぴったりと寄り添い、隣でパドルをするのである。


少しほっとして、彼女と一緒に、えっちらおっちらパドルをした。


岸までの距離は、正直、とても遠くに感じられた。



が、パドルの手を止めると、さやかちゃんが、”Kyokoちゃん、もう少しだよ、頑張れ!”と励ましとも叱咤とも言えない声をあげる。

それで岸まで、何とか自力で辿り着く事ができたのである。



岸に上がってから先は、あっと言う間だった。


どこかから、よっちゃんが私の話を聞きつけて駆け寄ってきて、すぐタオルを差し出してくれ、その後、師匠が来て、どんな男に当てられたか覚えてないかと私に尋ねた。


コンドミニアムに帰った後は、縫う事になるだろうからと、簡単にシャワーを浴び、鏡に写った顔を見ると、案の定、かなり血の気を失った顔をしている。


実はサーフィンで怪我をしたのは、これが初めてではなく、当たった瞬間に怪我の程度は察しがついていたので、病院に着いた際、師匠には、”外で待ってて下さい。多分時間が掛かりますから。”と告げた。


それにも拘らず、師匠もよっちゃんも、診察室に留まったまま、先生の到着を待ち、
やがて、インド人の医者が入ってくると、師匠は、”良かったね、この先生上手だから。”と太鼓判を押してくれる。


さすがに合宿を開催するだけあって、これまでも色んな人をここに運んだのだろう。


更には、ドクターが傷口を縫っている間、それを眺めながら、師匠はよっちゃんに、何かを小声で解説している。そして同時に私にも、“今は傷の中側を塗っているところ”とか、”今、外側に取りかかった”とか、中継してくれるのであった。


何の道でもそうだけど、やはりプロというのは、性根が座っている。


治療は、それまでの怪我の中では一番長かったけれど、傷口が塞がった後は、ほっと一安心し、気分も晴れた。

それから合宿所に戻って、待っていてくれた他の塾生とさやかちゃんにお礼を延べたあとは、いつも通りに皆でワイワイと夕飯を食べ、その日は、ベッドの中で、深い眠りについた。



(続く)







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2012年5月22日火曜日

海の物語 Vol.4.

                                                                                        Baggan, Myanmar





さて、自分の負けを認めるのは、誰しに取っても、簡単なことではないと思う。
それは私に取っても同じことであった。


小波の一つもろくに取れない自分の実力が、如何なものかは、歴然とした事実である。




砂浜から監督する師匠は、我々に向かい、”上手い!”とは決して言わなかった。


けれど、”ダメダメ!”とか、”このドヘタ!”とも決して言わなかった。



そしてその代わりに、口から発せられるのは、”行けっ!”とか、”最後まで粘って乗れ!”という激だった。


その気迫、そして真剣さには、少なからずとも心を動かされるものがあった。


この人は、私のように、弱さを隠す為、物事を茶化したりしないのだ。


真剣に、このサーフィンという競技に取り組み、同じようにサーフィンを志すものに、体当たりで、挑んでいるのだ。





彼女の気迫は、他にも色んなところから発せられていた。


まず、そのパドル。


上手い人はいくらでもいるけれど、彼女のように全身に力を込め、全速力でパドルをする人を、それまでに、私は見た事がなかった。


その凄まじさたるや、回りにいる凄腕サーファー連中も、彼女がパドルを始めると、黙って、その成り行きを見守らざるを得ないような迫力があった。



また、時間が下がると混むからという理由で、彼女は毎日4時に起床して、充分にストレッチをした後、いち早く海に入って行った。



よっちゃんや、他2名の合宿生が、それに加わって降りていくにも拘らず、私とさやかちゃんと言えば、いつも寝坊組で、それでもしばらく経って目が覚めて、慌てて降りて行くと、まだ真っ暗なビーチには、人はまばらで、しんと静まり返った砂浜には、ドーンと大波が打ち付ける音だけが響いている。




実は、この波の中に入って行くのは、初心者の私にはかなりの勇気がいった。



巨大な波を目の前にして、大抵は勇気が出ずに、少し離れた外れの方まで歩いていくのだが、何日目のことだっただろう。さかやちゃんに励まされ、今日こそはと、一緒に入ったものの、彼女のパドルの早さには、あっと言う間に距離を離され、それでも負けじと必死で波を掻いていると、目の前に現れたのは、息をも飲むような、スーパーウェイブであった。



あっと息を飲みつつ、ここでうまく交わさなければ、絶対にグルグル巻きにされて海底に叩き付けられてしまう。



そこで、タイミングを絶妙に図り、自分に出来得る限り、最深のドルフィンスルーで板を沈ませる。


と同時に、私の腰全体に、ドーンと叩き付けるような衝撃が走った。


もう少し、ドルフィンが浅すぎれば、絶対に波に巻かれて、溺れかけていたことだろう。


それまでにも、大波にまかれ、”あ、もう駄目だ。”と思ったことは、何度かあった。



ジャワの波で、水深く叩き付けられて、息が続かずに溺れかけたことも、波のパワーでリーシュが外れ、海流に流されながらも自力で泳いで戻ってきたこともあった。




けれど、この波は、そのどの波よりも早く、激しく、そして美しかった。


頭の中が真っ白になりながら、とにかく前へ前へ、と必死でアウトを目指す。



そして、何番目の波を乗り切った後だったのだろう?すぐ目の前を、何かが通り過ぎるのが見えた。



一瞬目を疑いつつ、それでもパドルする手は休めずに、最後の波を乗り超えたところで見たものの姿を、私は一生忘れないだろう。






僅かに赤みの差した地平線に、黒、群青色、オレンジとグラジュエーションを描きながら静かに明けて行く空を背景に、目の前を美しく跳ねて行ったのは、イルカの一群だった。



それは、私から、その時持っていたすべてを、持ち去っていった。



恐怖に駆られ、ただ、固くなっていた私に、”そんなに怖がらなくても平気だよ!”と、彼らは、笑顔で祝福しているかのように見えた。




そう、イルカが、私達のところに、遊びに来てくれたのだ。



(続く)






2012年5月20日日曜日

海の物語 Vol.3



                      Una Casa Chiquita (Playa del carmen)





さて、その翌日、待ちに待った研修生が日本からやってきた。


30代前半の女子2名で、2人とも、パッと見は小柄で地味ながら、サーフィンの腕は、なかなかのものだった。


それもそのはず、一人は茅ヶ崎に家を構え、もう一人は四国から、師匠の友人に紹介されたということで、要は年間を通して、常に波の立つ好条件の元で、サーフィンに取り組んでいたのである。


これは、冬場にのみ風波の立つマレーシアとは、初めから意味が違う。


おまけに、日本には、たくさんの雑誌や教本、お金さえ払えばいくらでもうまくなれるようなスクールがたくさんあり、しかも、一度でも経験のある人ならわかると思うけれど、要は、遊びといえども、何事も真剣かつ勤勉に取り組むのが日本人なのである。




それに対して、南国在住のサーファーはといえば、一にも二にも雰囲気重視。


ビーチで、ボブ・マーリーを大音量で流しながら、リズムを取り、根性試しと称しては皆で集まって、真っ暗闇の坂をスケボーで滑り降りることはあっても、少しでもうまくなろうと、ビデオ撮りしてフォームを直したり、教本を読んだりというような面倒なことは、一切やらないのである。



実はこれこそが、我々ホームビーチ長老の大きな悩みでもあった。

仲が良いのは良けれども、これでは一向に伸びないのだ。


これでは世界のレベルに、いつまで経っても追いつける訳がない。


当時の私に取っては、他の誰もが上手に見えたし、まさか、我々がそんな低いレベルに甘んじているなどとは想像もせず、皆でわいわいと過ごす週末を、多いに満喫していた。


それが乾期になり、こぞって皆がバリへ移動するようになっても、この受難は続く。

というのも、インドネシア人と、マレー人は、ルーツが同じなのだ。


多少の違いこそあれ、同じ言語ルーツを持ち、ビーチに寄っては、同じ宗教を信仰するムスリム(多くのビーチボーイはジャワからの出稼ぎ)がほとんどのバリにおいて、他の外国人がすべてお客様(カモ)であるのに対し、彼らは兄弟分であり、日が暮れて、一泊40,000ルピア(340円)ほどの、水シャワー付きロスメンの前を通ると、たいていは、兄弟達が複数たむろっては、アラックで酒盛りをしたり、サーフショップの前に陣取っては、店に一台だけ設置されたテレビから流れるトムとジェリーなどを、一緒に見ては笑っているのであった。



私はマレー系でも、マレー語が堪能な中華系でもなく、現地入りすれば、日頃の貧乏暮らしを払拭するために、一人、お湯の出るバスタブ付き豪華ロスメンに泊まっては、束の間の休日を楽しむ別行動を取っていたのだが、それでも現地にいれば、行った先々で、似たような顔ぶれを見る訳で、たまに彼らとつるんだり、その兄弟分と話をするうちに、なんとなく仲間うちのおまけになっていたようだった。


もしかしたら、他のお金持ちサーファーのように、立派な板やいでたちではなかったことも、幸いしていたのかもしれない。


皆さんが、バリのビーチボーイにどういうイメージを抱いているかはわからないけれど、彼らは、たいていが家族を助けるために、他島から無一文でやってきて、ビーチに寝泊まりしながら、徐々に生計を立てていく、という、若くてもなかなかの苦労人が多いのだ。


まぁ、何しろそういう訳で、私はどこで入っても、そこの主に波を分けて貰い、おまけに、タイミングのGoサインまで出して貰って、初めてパドルし始めるといったようなグウタラぶりだったから、(そして、ぼんやりして遠くまで流されると、いつも誰かが助けにきてくれた)闘魂とか、気合いとは無縁の、甘ったれサーファーだったのだ。


それも、ここ、オーストラリアにて、一人っきりの状態になるまで、それに気付きもしなかったというのだから情けない。


これは私に取って、かなりの衝撃だった。

そう、波に乗りたければ、誰よりも早く覚悟を決めて、突っ込んでいかなければならないのだ。


波の動きをよく見、ベストポイントにいち早く移動したら、躊躇うよりも前に、テイクオフしなければならないのだ、失敗など恐れずに。


彼女らが、次々と波に乗って行く横で、私は一人たじろいでは、タイミングを逃していた。



それを見かねたのか、あるいは日を追うごとに、高くなっていく波を考慮したのか、ある日お師匠さんが、”今日は別のビーチで練習。”といい、車で出掛けた先で我々が見たものは、浅瀬のぎりぎり乗れるか乗れないか位の小波であった。


なんだか格下げされたような気がして、それでも気合いを入れて、海に入って驚いた。


波がないと馬鹿にしていたが、どうもこの一帯はどこにいけども、引きが強いのである。


さすがは大国オーストラリアの海。


陸地は当たり前のことながら、海の中も相当にワイルドなこの国では、人食い鮫を筆頭に、ブルーボトルと呼ばれる、状況に寄ってはショック死さえも引き起こす猛毒くらげやその他諸々が住んでいてのっぴきならない。そして、そのカレントの強さにも、ど肝を抜かれてしまった訳だ。


それでも夢中でアウトに出て、ちびっ子のいる方に陣取り、さぁ出陣、と思うやいなや、目の前を、スッと子供がよぎったかと思うと、次の瞬間には、軽々とその波に乗って行く。

その次も、またその次も、彼らは、いとも軽やかに現れては、波を取って行った。


さすがはサーフィンを国技とするパイオニア達である。


子供といえ、彼らの持って生まれたセンスの良さには、ただ、唸るしかなかった。



またしても、完敗であった。



(続く)





2012年5月18日金曜日

海の物語 Vol.2



                                                               L.A, California





行った先は、とある日本人女性プロサーファーのサーフィン合宿所。


彼女が遠征中のオーストラリアにて、一緒に合宿生活をしながら、スクールを受けるというものだった。


そもそも、体育会系とはそれまで全く無縁だった自分が、どうしてこういう合宿に参加しようと思ったのか?


それは、先にも後にも、サーフィンがうまくなりたかったこと、久しぶりに日本人だけに囲まれて生活してみたかったこと、それに偶然が重なったこと。


この偶然に関しては、また後で書きたいと思う。



何しろ、飛行機を乗り継いで辿り着いた先は、クーランガッタビーチを見下ろせる、高層コンドミニアムの一室だった。



他の合宿生は、日本から翌日到着予定だったが、私は他国からの飛び入り参加ということで、他の合宿生よりも一足早く、現地入りしたのだ。



合宿生のお世話をしてくれるアシスタントのお二人に、まずはご挨拶をし、その後、師匠となる先生にご挨拶しようと、バルコニーに出るなり、声を上げてしまった。





幾重にも重なるセットの波が、岸に向かって割れているではないか。



これまでに、サーフィン雑誌で、そんな光景を見たことはあった。


いつか、こんな波に乗れたらいいなと切り抜いて、部屋の壁に飾ってもいたし、サーフィンのメッカと言われるバリのウルワツで、同じような光景を眺めたこともあった。



しかし、目の前の波は、それまでに見たどの光景とも異なっていた。



まず水の色。


それは青というよりも、緑の掛かった青で、それが乾いたオーストラリアの、突き抜けるように青く高い空に良く映えた。


それからビーチ。


さすがに大国オーストラリアだけあって、なだらかなカーブを描きながら、それはどこまでも横向きに広がっており、ところどころに、鎮守の森のような緑が見えるのが、どこか日本的だった。



最初に町中を通った時、どこかワイキキ的な雰囲気に、一瞬引いたのだが、この光景を見れば、どうしてここが、サーファーズパラダイスと名付けられたのかがよくわかる。


この光景の素晴らしさをパラダイスと言わずして、なんと呼べよう!



挨拶をするのも忘れて歓声を上げていると、早速夕方入りにいくから、準備するようにとお師匠さん。


さすがはプロだけあって、その容姿は精悍で、口数も少ない。
正真正銘の体育会系の方である。



一方、久しぶりに素敵な日本人女性に出会えて、テンションの上がった私は、せっかく体育会系の雰囲気を保とうと頑張っているにも拘らず、アシスタントの2人に向かい、一方的に喋りまくった。そして、ウキウキと準備もそこそこに、早速仲良くなったアシスタントのえりかちゃんと二人して、転がるようにビーチに踊り出た。


が、今度は私が無言になる番だった。



高層階からは、綺麗に見えたセットの波が、地上に降りて、目の当たりにしてみれば、ビルの2階は軽く超えるであろう大波なのである。

それも今までに見た事もないような、海底に叩き付けるようなパワー、そしてその波を廻り、壮絶な波取り争いが繰り広げられている。


一足先に入った師匠とアシスタントのよっちゃんは、その、地元のサーファーを間をすり抜けるようにスイスイと波に乗っている。


完全にフリーズした私を横目に、えりかちゃんさえ、”じゃ、Kyokoちゃん、あとであの丘の上でね!”と言い残し、凄い勢いのパドルで、アウトに向かって消えていった。



そう、真面目なよっちゃんに比べれば、おしゃべりで軟派なえりかちゃんも、一旦海に入れば、海の女。それもそのはず、彼女も、一時はオリンピックを目指した水泳の選手だったのである。



取り残された私は、呆然とそのその光景を眺め、しばらくして我を取り戻した後、すごすごと浅瀬の方に向かい、一番端っこの、いかにも初心者らしき連中が集まる一角に、陣取ってはみたものの、もちろんその日は、一本の波も取ることができなかった。





(続く)






2012年5月17日木曜日

懐かしの・・






今日は仕事が休みで、朝から新規プロジェクトに取りかかろうと、机の前に座るのだけど、アイデアが煮詰まって、一向に進まない。



そこで、気分転換を兼ねて、懐かしの場所を訪れて来ました。





訪れたのはここ。





さぁ、果たして私はどこに行ったでしょう?

一発で当てた人には5ペソ進呈!(但し、自己回収制にてお願いします。)






え?上の写真だけでは難しい?

それでは、正面から見てみましょう。












これでどうでしょう?

「21年の実績を誇る」、と2行目に書かれてあります。
















えっ?これでもわからない?!

皆さん、鈍いですねぇ〜。


じゃぁ、仕方ない。少し離れたところから見てみましょうか。




さぁ、これでもうお分かりですね!








え、まさかって?

そうですよ、そのまさかです。






















正真正銘の自動車学校です!











いや、何を隠そう、私も最初に電話帳で見つけて、タクシーで乗り付けた時には、驚いたんですけどね。



だって、普通、自動車学校って、もっと敷地が広くて、立派じゃありません?




 








しかし、ここで簡単に諦めてはいけません。

なんたってこの学校の魅力は、その価格にあります。


12回コースで、お値段はたったの1200ペソ(7200円)!

一回についてたったの120ペソですよ!

どうですか?何十万も払って、免許を取る事が、急に馬鹿馬鹿しく思えてきませんか!?








ちなみに、この教習所のシステムを、ざっとご説明させて頂きますと・・



初回       :座学(ミニカーによる親切なレクチャー付き)


2回目〜6回目  :郊外のオフロード(別名:マングローブ林)にて実地練習


7回目〜10回目 :郊外路上にて実地練習


11回目〜12回目:市内路上にて実地練習→卒業





というスピードシステムを取っております。


しかもクラスは、ユーモア溢れるメキシコ人が同乗し、和気あいあいと楽しく行われます。


最初に路上に出た時、これはビジネスチャンスに繋がるに間違いなし!と、担当インストラクターと多いに盛り上がり、ビジネスサイトを立ち上げよう、というところまで行ったまでは良かったのですが・・



2回目:車の故障でキャンセル


4回目:灼熱のマングローブ林の中で、車が故障して立ち往生。途中でイントラを残して    バスで帰宅。


6回目:イントラが途中で休憩を申し出、お菓子を食べながら、新聞を読み出したのに切     れ、学校に苦情を入れたところ、担当者変更となる


9回目:人気のない路上でいきなり車がパンク。クレジットが電話に入ってないという新     イントラに代わり、21年の実績を持つ、学校長とやらにに電話を入れたとこ      ろ、しばらく経って迎えに来た彼と仲間の手には、なんとビール瓶が!
学校長としては如何なものかと、奥さんに告げ口したところ、夫婦喧嘩となる。


11回目:インストラクター、突然消失



12回目:自然消滅






とまぁ、紆余曲折ございましたが、晴れて、無事に(自動)卒業したのでした!

(結局その後、業を煮やした相棒により、補講を受ける羽目となったが、これが虐めとしか思えず、最悪であった。)




※※※





思い起こせば、あれから1年半。

今では、すっかり運転にも慣れ、スイスイと、一人どこにでも移動でいるようになったのは、やはり、この学校のお陰としか言いようがありません。


もちろん、無事故無違反で、先方過失によりぶつけられたのは、現在までにたったの3回!

これは、メキシコでは驚異的な記録です。





・・ということで、まだ、免許をお持ちでないそこのあなた。

お子様に免許を取らせてあげたいけれど、先立つものがない、とお悩みのあなた。


どうぞお気軽に、キョウコ・エスクエラ・デ・マネハル・メヒコまで、お問い合わせ下さい!






こんな可愛いマスコットが、あなたをお待ちしてまーす!









2012年5月15日火曜日

海の物語 Vol.1

                                         Cosmel Island, Mexico



10年ほど昔、シンガポールに住んでいた頃、週末が来ると、マレーシアの海まで、サーフィンをしに通っていた。


マレーシアでサーフィン?って思われるかも知れないけれど、冬場には、結構良い風波が立つ。


しかも当時は、コミュニティがまだ小さかったから、海に入ってる全員が、知り合いといった具合で、皆が仲良く、譲り合って乗っていたので、いつまで経ってもうまくならない、私のような者にもちゃんと順番が回ってくるという、今考えれば、何ともありがたい仕組みだった。


もちろん、うまく乗れたときの快感と言えば、言葉で表しようもなく、自分も自然の一部、大家族の一員になったような、なんともこそばゆい気持ちで、週末が近づくと、荷物を纏めては、そそくさと出掛けて行ったという訳だ。


さて、このコミュニティには、色んな人がいた。


地元のマレー人はもとより、シンガポール人(そのシンガポール人の中にも中華系、マレー系、インド系がいる)、シンガポール在住の駐在員(主にアメリカ、オーストラリア人)、そして私のような現地採用の日本人と、まぁ、色んな顔つきの色んな人が、それぞれやってきては、一日を共にするという感じで、それがある日は、マレー人の中に私だけで、のんびりゆったり過ごすこともあれば、行ってみたら中華系ばかりで、彼らの頭の回転の早いトークに、やられっぱなしのこてんぱんにされる日もあれば、はたまたお金持ちの駐在員が混じり、そこにいる女子のテンションがあがる日もあれば、ティーンエージャーの子供ばかりで、彼らに混じり、食パンと缶詰で空腹を満たしながらビーチで野宿という日もありと、いつ行っても違う感じで、色んな顔を楽しむことができたのだ。




ところが、そんな平和なビーチに、ある日ある時、ちょっとした事件が発生した。



突如として、絶世の美女が登場したのだ。




彼女の名前はニコル。生まれはシンガポールながら、水泳の選手として、オーストラリアに派遣され、長年トレーニングを積んで帰ってきたという彼女は、中華系シンガポール人というよりも、笑顔の美しい、スレンダーなポリネシア美人といった容姿。


それまでも、いわゆるビーチ映えする、ビキニ美人とか、ギャラリーとしての女性はたくさんいたけれど、彼女は正真正銘の、水泳で鍛えた美しい肢体を持つ本物サーファー。


パドルの早さは当たり前のことながら、波を取る姿、スプラッシュをあげる、その格好良さ、そして、乗り終わって戻ってきた時に見せるその笑顔に、海の中の様相はガラリと一変した。


海の上、丘の上に限らず、男という性別の持ち主は、誰もが必ずや一度は彼女に話しかけて、様子を探らずには居られず(泡よくばデートも)、それまで全てを欲しいがままにしていた女子連中は、彼女に脅威を感じて、眉間にしわを寄せはじめ、まぁ、要するに、それまで穏やかだったビーチの雰囲気が、どうにも不均衡なもの・・なんだか浮ついたような、探り合い、出し抜き、そして嫉妬光線の飛び交う、妙なものになってしまったのだ。



しかし彼女は、そんな自分のことを良く知っていたのだと思う。

最初に私ともう一人の女友達のところにきて、自己紹介をした。


”私、ニコルというの。よろしくね。”


その時、自分がなんと答えたかは覚えてないけれど、言わずもがな、自分の対応が非常に冷淡であったことは、覚えている。


普段、男連中が、お金持ち駐在員サーファーに、感じ悪くしているのを横から見ながら、”子供っぽいわねぇ。”なんて嘲っておきながら、自分の時には、よろしくの一つも言えないのだから、全く人間とは勝手なものだ。


しかし、この不均衡も永遠には続かなかった。
彼女が、とある彼女にぴったりの、素敵な男性のもとに収まったからだ。


そして、それが確定したのと同時に、それまでの不協和音は嘘のように成りを潜め、以前の平和なビーチに戻ったのであった。




                 ※※※




さて、そんな珍騒動があってからしばらく経った頃、いつものようにアウトで波待ちをしていると、彼女が少し離れたところにやってきた。



通常、アウトに出たら、あまり話はしないのが鉄則だが、その日は波もなく、全く穏やかな一日で、ぼーっと浜辺を見るともなく眺めていたら、”足下をね。”と背後から声がする。



振り向くと、彼女が足下をクルクルとかき回しながら、”波を待っている時、ついつい足下を確認してしまうのよね。”と言っている。



何を言っているかわからず、一瞬ぽかんとしていると、”オーストラリアではね、波を待っていると、イルカがよく遊びに来るのよ。”と彼女。



”え、いるかが?ほんとに??”



”ほんとほんと。だからね、ついついその時の癖で、こうやって波待ちしている時、下を確認しちゃうんだ。”と彼女は顔を上げ、静かに微笑んだ。



その一言をきっかけに、私は彼女と話しをするようになった。




その話に寄れば、彼女はバイロンベイという、サーファーの間では有名なポイントでサーフィンを始めたということ。


シンガポール代表としてオーストラリアに遠征したものの、上には上がいたのだろう。結局その道には進まず、何かをきっかけに、サーフィンをするようになったらしい。



サーフィンをしている人の側に、いるかが遊びにくるなんて、信じ難い話だけれど、でも、もしそれが本当なら、私も是非見てみたい・・いつしか自分までもが、そう夢見るようになった。


全く世の中は広く、世界にはたくさんの場所、そしてたくさんのサーフスポットがあり、自分の知らない、素敵な世界がたくさんある。


そして、自分の腕さえ上がれば、もっと色んなところに入れるようになって、もっと多くの素晴らしい体験が出来るようになる・・・



そう想像するだけで胸は高鳴り、それに併せて私のサーフィン熱は益々加速していき、寝ても覚めても、頭の中は波のことだらけ。終いには、良い波があると聞くと、仕事までさぼって出掛けて行くという危なっかしい状況にまでなっていた。


そして、彼女と話してから約2年経ったある日、たまたま開いたサイトがきっかけで、私は、いよいよ待ちに待ったオーストラリア遠征に出掛けることになった。





(続く)






2012年5月10日木曜日

3人寄らば、マヤ人の知恵




                                    Helmano de gatitos






休みの日を利用して、久々に出掛けた町で、やってしまった。
何を?大失敗を。




この町で、私には3つのタスクがあった。

1.プエブロ(町中)でリボンを見つけること


2.持ってきたプレゼントにリボンを掛けて、長年来お世話になったイタリア人カップル  に、お礼方々その品を渡す(彼らは数日後、新天地に向けて旅立つ予定)


3.この町に住む友人の太極拳のクラスに参加する


寝坊して時間が差し迫っていた上に、道中飲んだコーヒーが利いたのか、猛烈に用を足したくなり(失礼!)、緊急トイレまで探さなければならなくなったものだから、焦った私は、友人に電話して、文房具屋の場所を尋ね、(小さな町で、こういう物を見つけるのは、結構大変だったりする)更に、どこかで用を足せないか、目をキョロキョロさせていた。


幸いに、小さな文房具屋が、程なくして見つかり、取るものも取りあえず、しょっぱなから、”緊急事態発生、トイレ貸して下さい!"と切り込み、用を足してホッと一息ついたところで、さぁて、どのリボンにしようかな、いやまてよ、こういう場合は、やっぱりモノと合わせて色合いを見た方がいいなと、一旦店を出て、車に戻って仰天。


なんとなーんと、鍵が差さったままロックしてしまっているではないか!


いくらメキシコがカジュアルとはいえ、お店に入って、商品を手に取るよりも前に、人の家のトイレに駆け込み、更には、今度は車のドアを開けられないとは、さすがの私も言い出しにくく、まずは、ドアというドアを全て確認するが駄目。


あ、待てよ、そう言えばと思い、一カ所、買ったときから壊れてて、無理矢理いつも手で押し上げている、手動式窓をこじ開けようと頑張るも、あまりにも雨など振り込んで厄介なので、先日徹底的に開かないようにしたのが災いとなり、今回ばかりはウンともすんとも言わない。


これが家に近ければ、相棒に電話して、誰かに来てもらうか、どこに電話したらいいのか聞いて貰えるけど、なんせ2時間も離れた町のことなど、彼が知ろうはずもない。


仕方がないので、努めて明るく、そして少し控えめに、先ほどの店に入って行き、"お兄さん、ちょっとこちらへ。"と、笑顔で手招きして、彼を車のところまで誘導することに成功した。


中をのぞいた若者店員は、"Hijole!(わっちゃ〜!)"と目を丸くする。そこで、すかさず、”ねー、あれ持ってないかしら?えーっと、ほら、あの服を掛けるやつ、スペイン語でなんて言うんだっけ?”と身振り手振りで尋ねると、わかったようなわからないような顔をして、一旦戻って持って来たのは、お箸より若干長めの棒。


いや、こんなんじゃなくって〜!とすんでのところで駄目出しをしつつ、いやいや、こちらは頼んでいる身なのだから、ここは受け身の姿勢でと、一応、隙間から窓のハンドル部分を突いてみるも、もちろん、そんなもので動く訳もない。


やっとハンガーに相当するガンチョ、という言葉を思い出し、”ガンチョでね、中のレバーを開けようと思うんだけどね。”と同意を求めようとするも、そんなものはない、とのお答え。


いやいや、ここで諦められては困るのだ。


”あるある!”と無理矢理探しに行かせ、ふと振り返ると、隣の洗濯物屋らしきおばさんがこちがの様子を伺っている。そこで今度はおばさんを手招きして、同じように車の中を見せると、おばさんも、先ほどの店員と同様、”あらら〜!”と声を上げる。


すかさず、”ね、ガンチョない?ガンチョ??”と聞くと、おばさんは、店の中にいた小さな娘に、”ガンチョ取ってきて!”と数件先の、店に取りに行かせたのだが、その娘が持ってきたものは、プラスチック製ハンガー。


うーん、これじゃぁ駄目なんだよなぁ〜。とおばさんと目で会話。


と、そこに先ほどの、文房具屋の青年が再び現れる。手には、太めの針金のコイルを持っているではないか。


”おぉ〜、これよ、これ!”


大張りきりで、針金を差し込む青年。ところが、私の車は1984年製の、超アンティック車であるゆえ、窓の開閉が、いまだに手動式なのだ。しかも、その窓を開けようとすると、針金で引っ掛けても幅が足りなくて、どうしても開かないのだ。(あとで相棒に聞くには、盗難防止のために、わざとこういう風になっているらしい。)


開きそうで開かない窓。
ジリジリとしながら、3人で代わる代わる試してみるも、びくともせず、ふと顔を上げると、3件先の肉屋の主らしき男が店先に出て、こちらを眺めている。



そのうちに、買い物途中のおばちゃん達が、通りかかり、”あらら〜。”などと、一言づつ感想(?)を述べては、その場に居座るので、ギャラリーまでできちゃって、なんだか一大事に。


と、その時、背後から、”いやいや、窓じゃなくて、鍵よ、鍵。”と声がする。


顔を上げると、そこには、どこから現れたのか、ダイビングショップの制服を来たおじさんが立っている。


おじさん曰く、”窓じゃなくて、あの鍵を取ればいいんだよ。”と、隙間が開いた方の窓から見ると、更に奥手にある鍵を差す。

近い方の窓を開けることばかり考えていた私に取っては、目から鱗の発言であった。


”窓を開けるのは、難しいんだよ。貸してみな。”と、彼は針金を手にすると、先をUの字に曲げ、まるで縁日の鉄砲当てで、商品を狙うプロのごとく、隙間からシュルシュルシュルと、奥まで延ばしたかと思うと、ものも見事な早さで、鍵を引っかけ、さっと抜き取ったのである。


その所要時間たるや、わずか20秒。


”おぉぉ〜っ!!”

ざわめく群衆。そして拍手と笑顔。

”ありがとう、皆さん、ほんとにありがとう!”



この国の良いところは、人々に時間と人間的余裕のあることだと思う。


1日に5回は、”何でこんなことに時間掛けるかなぁ〜!?”とイラっと来る私であるけれど、こういう時、見知らぬよそ者外国人の私に対しても親切にしてくれる、その余裕と人間的優しさはほんと、身にしみます。


しかし、マヤ人の過去の栄光は歴史にもよく知られた通りであるけれど、寄らば文殊の知恵とは良く言ったものです。


かくして初太極拳も経験出来、また、リボン付きのプレゼントも無事渡せ、なかなか幸せな休日となりました。




めでたしめでたし。






追伸:

最近、ビニール張り黒椅子を、一気奮発して買ったのだけど、猫が爪を研ぐものだから焦り、うちに掃除に来るおばさんに助けを求めたら、バスタオルでぐるぐる巻きにされて、”これで良し。”と、満足げに言われてしまった。


いや、あの、見てくれが気に入ったから買ったんですけど、なんて怖くてとても言い出せない。もちろん、彼女もマヤ系だったりします、はい。




2012年5月5日土曜日

質問





                                                            Caminando en a calle







うちのミャオ子に毎日欠かさず聞く事がある。



1.ミャオちゃん元気?


2.ミャオちゃんの、今日のご予定は?


3.ミャオちゃんの、人生の目標って何?







ミャオ子は今日も、”ミャオ〜”と鳴くだけである。






















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2012年5月3日木曜日

やっぱりバリが好き

                                                                      Hardy's home, Ubud, Bali


久しぶりに心躍る音楽を発見したので、ご紹介します。





なんだか体が勝手に動き出しませんか?

これを聞いていたら、かな〜り、バリに行きたくなってきました。
一時は取り憑かれたように通っていましたが、今は完全に反対側になっちゃったのが残念なところ。

写真は、ウブドにあるジュエリーデザイナー、hardyさんのご自宅。
シンガポール時代に、とある写真集でこの家の写真を見て、目が釘付け。

これは是非生を見たいと、その後にバリを尋ねた時、身動きの取れやすい原付に股がって探しに探しました。

結局、運良く探し当てることは出来たのですが、当日、ご本人は生憎お出かけされていなかったので、無理を言って、代理の方に中を見せて頂いたのですが、本当にため息の出る家でした。

夢は大きく。

私もそのうち是非、こういう家を持・・たなくてもいいから、持ってる人とお友達になれるよう頑張りたいと思います。:)