2011年4月26日火曜日

ものを手放すということ








持っている大事なものを手放すことって、結構つらいことですよね。 

例えば私の場合は飼っている猫とか、大好きな人との人間関係とかかな。 

あと、物に対する執着でいえば・・車かな? 
1月に車を手に入れて以来、どこにいくにも重宝してました。 

はい、過去形で書いたのは、お察しの通り、今不調で、使ってないからです。 

とある部分が不調にて、ある日突然動かなくなってしまいました。 
なくなったその朝は、小パニック! 

学校に行くのに、車がないと、荷物とか運び辛いし、コーヒーも、昼ご飯も持って行かないと行けないのに~。 

でも、文句ばかり言ってられないので、仕方なくタクシーで移動。 
そして、帰りは久々の乗り合いバスにて帰宅。 

乗り合いバス、久しぶりに乗ったけど、小旅行気分で、それなりに楽しかったなぁ~。自分で運転しなくて済む分、周りの景色を眺めたり、道行く人を観察したり。 

おぉ、これもこれで悪くないなぁ、と久しぶりの旅情気分を味わえて、満足な一日。 

そして思う。 

原発がなくなったら、こんな感じなのかなぁ~、と。 

原発をもし廃止したら、日本は資源がないから、きっと色々な支障が起きるでしょうね。 

私は専門家ではないし、専門的なことを言われても、正直、あまり良く理解できません。 

でも、一つだけ言える事は、地震の多い日本にあって、もう危険性を伴うものは、辞めた方がいいんじゃないかなぁってこと。 

原発問題が起きた時、色んな方の意見を、色んなところで見せてもらったけど、その中で一番多かったのは、”原発辞めて、でも、今使っている電気はどうやって確保するんだ?反対する前に、代替え案を!”というものだった。 

確かにPCが使えなくなったり、電子レンジが使えなくなったら、かなり不便ですよね・・ 

でも、原発がなくなったら、PCも電子レンジも、全く使えなくなるのかな?それとも、使えない時間がかなり増えるということなんでしょうか?(私は無知なので、もし知っている人がいたら教えて下さい。) 

ご存知の通り、私の住むメキシコって、かなーりディープなところだったりします。 

生活必需品が手に入れにくい。水は買うもの。停電でPCはしょっちゅう使えない。3回に1度はお湯がでない。頼んだ配達は待てど暮らせど来ない。治安は良くない。暑い国なので、食べ物や虫などからしょっちゅう色んなものに感染する、等々。 

実はこの一ヶ月ほど体調不良で、特に、先週1週間は、変な風邪に加え、サルモネラに掛かって、死にかけたヤワな私。 

ないことで、ストレスがたまること、たっくさんあります。 

舌打ちすることもあれば、”あ~ぁ、ここが日本だったらなぁ・・”と思う事も数知れず。 

けれど、ないものはない! 
しょうがないじゃないの、わはははは。 

最後は開き直ったもの勝ちです。 

そして、文句を言った後は、工夫を考え出します。 

”また停電かぁ~。しっかたねーなー、じゃ、気分転換も兼ねて、スタバいくか!”とか、 


”おっと、最近はPC漬けで、しばらくご無沙汰だったから、瞑想でもするか!”とか、



”じゃ、今日はお湯沸かして、一人温泉、タライ風呂ね。”とか、


1週間寝たきりの床の中で、普段考えないことを、色々考えてみたり、等々。 

そして、文句を言いつつも、その状況を楽しめるようになれば、こっちのもの。 

ないからこそ、見えるもの。 
ないからこそ、それが手に入ったときの喜び。 

それは・・失って初めて知る感覚なのかもしれません。 

大切なものを手放すのって、正直、とても勇気がいることだと思う。 
しかも、それに慣れ親しんでいたら尚更、手放すときは、寂しかったりつらかったりするものだと思う。 

でもね、そんなに悪いことばかりではないよ、ってことを、言いたくて、ちょっと日記にしたためて見ました。 

後進国の暮らしって、不便もたくさんだけど、”ないことの豊かさ”もたくさんです。 



私達の将来が、健やかなものとなりますように。 



http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg


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2011年4月18日月曜日

メキシコネタ もう一丁



土曜日の朝6時すぎ。

シャワーの蛇口をひねって、舌打ちする。

7時から学校が始まるというのに、こういう時に限ってガスが付かない。

取る物も取りあえず、ライターを片手に屋上に駆け上り、這いつくばって着火するにも、一向に火はつかず、ただ、風でガスが消えたのではなく、ガスそのものがなくなっていることに気付いて愕然とする。

そう、ここメキシコでは、こういう面倒くさいことが、ちょくちょく起きるのだ。


例を挙げれば切りがないが、簡単に説明すれば、それは予期せぬ停電であったり、何ヶ月経てども交通止めになったままで全く進まない道路工事だったり、水道水が飲めない国柄ゆえ、朝、コーヒーを入れようとして水がないことに気付いて、階下の倉庫から、寝ぼけ眼のまま、大きなボトルを、えっちらおっちら運んだり、などなど。

中でも一番面倒くさいのは、ここぞという時にネットが使えないことと、疲れ果てて家に帰った時に、ガス切れで、お湯シャワーが出ないこと。

これは、本当にがっくりきてしまう。

この日も張り切って早起きした割には、いきなりのガス切れで、一日の始まりにケチをつけられたような気がしてしまった。

実際、この国でのガス切れは、なかなか面倒くさいことだったりもする。

配達を頼もうなら、修行僧のように家で待ち続けないといけない。

たいていは、頼んだ当日には来ないので、その苦情の電話を入れ、2、3日待って、やっと来ればいいほうで、うちなんかは、すぐにしびれを切らせ、自ら重いタンクをトラックに運んで、郊外まで毎回買いに行っていた。

が、昨今相棒の多忙につき、そんなことも言っていられなくなってきて、その翌日になって、忙しい時間を縫って、スタジオから戻ってきた彼が、タンクを屋上から運び出し、出掛けた直後になって電話を掛けてきた。

えらく興奮していて良く聞こえなかったが、”今すぐ表に出てきて!”と言っている。


何だろう、と思いながら外に出ると、そこにはなんと、たまたまた通りかかったガス会社の車を止めて交渉している姿があるではないか。

”今、お金を払ったら、明日、持ってきてくれるって!”

これで、1時間以上、節約できた彼は、ホクホク顔である。

ちなみに、通りには、なんと3台もの、異なったガス会社の車が同時に通りかかって、1台目は断られたものの、2台目の会社との交渉に成功したという訳だ。

まるで宝くじに当たったかのように嬉しそうに笑う彼を横に、私は呟く。

”でも・・本当に、ちゃんと持ってきてくれるのかな・・”

しかし、楽観度数120%の相棒は、”大丈夫!チップもはずんだし、これで憂いなしというわけさ。はっはっは!”

とすこぶるご機嫌でスタジオに帰って行った。

そして翌日、再び早朝コールで呼び出された私。

”悪いけど、ちょっと手伝いに来て〜!”

いそいそと弁当持参で出掛ける私。

そして、スタジオに到着したや否や、あっ!と叫び声をあげてしまった。

”ど、どうしよう。今日、ガスの配達が来る予定だったってこと、すっかり忘れて来ちゃったよ〜!”

”大丈夫、大丈夫!今日居なくても、明日また来るって!”

人ごとだと思って簡単に言っているが、実はそんな保証はどこにもないことは、2人とも承知の上である。そう、ここはメキシコ。思った通り行かないのが、この国のお約束ごとである。

すっかり気落ちした私は、”あ〜、今日も自分でお湯を沸かしてタライ風呂かぁ・・”と、仕事に力も入らない。

ところが、一日の力仕事を終え、再び家に辿り着いた途端、ドアの開く音がして、隣人ペドロが出て来たではないか。

”Hola, ペドロ。”

”Hola, Kyoko!今日、ガス屋が来たよ。”

”そうなのよ〜!すっかり忘れてさぁ、出掛けちゃったのよ〜!!!”

”いや、預かってるよ。ちょっと待ってて。”



と、速攻で部屋から何かを取り出し、一瞬の間に、となりのドアを開け、まるで魔法でも使ったかのように、さっとガスタンクを取り出したペドロ。


”あ、ありがとう・・”

”さぁ、このガス、どうしよう?もし良かったら、屋上まで持って行こうか?”と、にじり寄るペドロ。

”あ、いや、大丈夫!ほら、明日、彼も来るって言ってるからさ。ありがとう。”

なんでもチップ制のこの国。例え隣人の親切でも、油断は禁物なのだ。

そして、自宅に入り、速攻で電話を掛ける私。

”あ、もしもし?私だけどさ。あのね、ガスね、帰ったらペドロが預かってくれてたのよ。”

”えっ?あ、そうなの?!それはよかった。彼もたまにはやるねぇ〜!”

”・・なんだけどさ。ちょっと腑に落ちないことがあって。あのさ・・”

”?”

”うちと、彼のアパートの間の部屋、そう、あなたが物置にしている部屋ね。あの部屋、あなた今ペドロとシェアしてるの?”

”え?”

”いや、ガス預かってるからちょっと待っててって、私も自分の家のドアを開けてたから、その瞬間は良く見なかったんだけど、もし私の見間違いでなければ、彼、あなたの物置を開けて、そこからガスタンクを取り出したんだよね。”

”・・・”

”ほら、この間、ミャオちゃんがいなくなって探して回った時、なぜか物置から彼女の鳴き声がして、開けてみたら、閉じ込められていたって話しをしたでしょう?”

”うん。”

”私の居ない間に、あなた来たって聞いたら、来てないっていってたよね。”

”で、でも、なんでペドロがうちの物置の鍵を持ってるんだ?!?”


”そんなの、私の方が知りたいくらいよ!でも問題はさ、例えば、誰かが抜き忘れた鍵を、彼がキープして、中をこっそりと物色していたとしても、どうして、私の見ている目の前で、堂々と鍵を開けて、うちの領域に入っていかなきゃいけないかってことよ。私、一瞬きつねにつままれているんじゃないかと思ったわよ。で、家に入って、冷静に考えてみて、でもやっぱりこれって変じゃん!?と思って、電話したってわけ。”

”うん、たしかにおかしい。明日、鍵、取り替えるよ。”

***


このペドロに関して、ここで説明するのは、正直難しい。

何しろ、今までにも、数々の逸話を残した人物で、ある時はうちのアパートの管理人、ある時は世捨て人、ある時は宇宙人、そしてある時は油断も隙もないイカサマ野郎なのである。

ちなみに、うちの物置には、相棒がどこかで集めて来たガラクタが所狭しと並んでおり、正直、金目のものは一切置いてない。しかし、だからといって自分の見ている前で、赤の他人が、自分の家の敷地の鍵を開け、中に入っていくのを直に見る、というのは、決して気持ちの良いものではないのである。

その昔学生の頃、外人アパートに管理人として住んでいたことがあったのだけれど、ある日、共同エリアのキッチンに入ったら、隣に住むオーストラリア人の女の子が、私が前日に干したはずの、お気に入りのシマシマソックスをはいて、楽しげに料理しているところに出くわしたことがあり、驚きのあまにり声が出なかった記憶があるのだが、今日のそれも、それに並ぶ大ヒットであることは間違いない。

念願のガスタンクが無事に手に入り、熱いシャワーを浴びて幸せを感じつつ、何かが腑に落ちないような気がしないでもない、メキシコの一日であった。

終。




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2011年4月13日水曜日

久しぶりのメキシコネタ Vol.1

Cozmel, Mexico






先日、相棒とハイウェイを走っていて、”あれっ?!”と思うことがあった。 

ハイウェイ沿いに掲げられた看板を、どこかで見たことがあるような気がしたからだ。 

私の住むカンクンと、今彼が建設中の(そう、未だに建設中の!)スタジオを結ぶ道は、そのハイウェイのみで、スタジオに籠りきって、戻って来ない相棒のところに、私は連日食料物資を配達する。 

当然、その看板のそばも毎日通るのだが、ハイウェイで、スピードを飛ばしているのと、自分で運転しているときは、よそ見があまり出来ないこともあって、何度となくその側を通り超していた。 

そして、スタジオからカンクンに配達を終えた岐路、再びその看板の側を通り過ぎながら、今日、私と彼とのあいだでこんな会話が交わされた。 

               ** 


”ねぇ〜、みてみて、あの看板!あの看板の写真、あなたのに似てない??” 

”うん、僕のだよ。” 

”えっ!?やっぱり〜!?いやぁ〜、なんか、どっかで見たことがあるような写真だなぁって、ずっと思ってたんだよ〜!” 

”うん。ま、正確に言えば、僕のじゃないんだけどね。” 

”はっ?” 

”僕の写真をそのまま使ったら、使用料を払わないといけないからってことで、僕の写真をモデルにして、別の人が、同じモデルを使って、同じように撮ったんだ。” 

”はっ?!” 

”この写真を撮ったときのディレクターから、こないだ電話が掛かってきて、「君も知ってるって僕も知ってるとおり、(→なんじゃそりゃ!by Kyoko)君の写真をコピーさせてもらったんだ。ほら、僕たちに予算がないって、君も知ってるだろう?でね、時に相談だけど、あの写真に付けるコピー、君、考えてもくれない?」って言うんだよ。あはははは!” 


         ** 


善良な皆さんの為に、もう一度繰り返し説明すると、数年前、某観光局のPR用に相棒が写真を撮りました。その写真は、当時、皆様の好評を得たけれど、数年経って、当時担当だったプロダクションが、再び、その写真を看板用に利用しようと試みて、そのまま使ったのでは、彼に使用料を支払わないといけないので、その写真と全く同じモデルを探してきて、全く同じ場所で自分たちで撮り直した、という話し。 

しかもその上、そのパクリ写真に合うコピーを、予算がないから無料で作ってくれというのだから、驚きを通り越して笑ってしまう。 

さすが、メキシコ! 
もうこんなこと、絶対ここでしかあり得ないんだけど!! 

こういうことが起こる度に、最初は怒っていた私も、いつの日からか、狡賢さを通り越して、サバイバル力に長ける彼らに、一目置くようになった次第。 

ちなみに、それを話す相棒も、慣れたもので、笑っている。 

”どおりで、なんだかアングルが変だなぁと思った。”という私に、”そうだろう、やっぱり僕の写真には叶わないってことよ!”と嬉しそうに話す相棒。 

・・なんか・・違うんですけれど! 

何はともあれ、ただで写真をパクられた上に、コピーまで作ってあげたかどうかは聞かないにしても、3年もいて、いい加減免疫がついたのか、”ま、いっか。”と流してしまう自分が一番怖かったりする、昼下がりの出来事でした。 


終。






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2011年4月2日土曜日

あの日



3月11日の早朝4時。私はいつもそうするように、起きあせにコンピューターを立ち上げ、コーヒーを片手に、mixiのサイトを一通り見た。

関西の友人が、サイトの中で、”関東のみんな、地震大丈夫だった?”と短いメッセージを載せていたけれど、さらりと読み過ごしただけで、その時は家を出た。その日、私はとあるツアーの2日目に同行する予定だった。

ホテルの駐車場に車を止めてお客様を迎え、6時に、我々日本人3人を含む10数名を乗せたマイクロバスは、目的地に向かって出発した。ロビーでお客さんが、”昨日、地震があったらしいですねぇ。”と話すのを聞いたものの、そんなに深刻なことが起きたとはまだその時は、知る由もなかった。

家族連れを乗せたマイクロバスは、子供たちの笑い声や、夫婦の楽しげな会話で和気あいあいと賑わっていて、そんな時、相棒から、日本で大きな地震があったみたいだという、メールが送られてきて、なんとなく気になって、普段は殆ど使わない、携帯のインターネットでYahoo Japanのニュースを開けて、自分の目を疑った。

そこには、陸前高田という町が流されて、少なくとも200人から300人が行方不明になっている、という見出しのニュースが載せられていた。

思わず声をあげ、隣に座るTさんに急いで携帯を差し出すと、それまで静かだった彼が、”あ、これ、妻の実家先だ。”と鋭く呟かれた。

咄嗟のことに、私も、もう一方のお客さん、Yさんも言葉が出なかった。

町から外れたところをバスは走っていたため、その後、アンテナが立っているところを見つけては、ネットにつないだが、被害はかなり大きなもので、津波も、ただ一カ所ではなかったこと、東京でもかなりの揺れがあったことなどがわかり、これは、大変なことが起きてしまったと、お二人が家族に向けて携帯メールを打つ横で、私はただ狼狽えることしかできなかった。

不安が胸に広がり、出先であることに苛立を感じもした。
沈黙、そしてまんじりともしない空気の中で、突如として、楽しいはずのツアーバスの中の、私達3人のところだけ浮かび上がり、まるで異次元にいるように感じられた。


”電波が繋がらない。”

そういって、携帯を諦めてバッグにしまいながら、”300人ということは、少なくともその10倍の被害が出たということだな。阪神の時の最初の報道もそうだったから。”と、Tさんがつぶやき、Yさんも、”うん、そうだな。”と同意した。

こんな状況の中で、祖国で起こった出来事を、冷静に話す二人の会話を聞きつつ、自分の無知や、ただおろおろとするばかりの自分の稚拙さを恥じ、見識の広い、人生の先輩でもある同胞者と一緒に居ることに心から安堵した。

言葉は出ないものの、3人の日本人が異国の地で、一緒にいることの連帯感を覚えた。


元々、このお二人は遺跡の取材目的で来られたVIPのお客様だった。
普段はガイドなどやったことさえない私が、偶然、教えている日本語学校経由で”他に人が居ないから”という理由の元で、急遽英語通訳(そう、スペイン語ができないので、英語の通訳として)雇われたのである。

正直、ガイドの経験もまるでなく、スペイン圏に住む私が、英語だけで、お客さんをうまくご案内できるかどうかは、自分でも疑心暗鬼だった。けれども、”人手不足”という理由がそこにあれば、例外として許されるであろうか?などと、自分を奮い立たせ、何しろ、私はその役を買って出る事にしたのだ。

ちなみに、これと時を同じくして、私には2つのオプションがあった。

一つ目は、瞑想のセミナーに参加すること。

これは、諸々の条件が合わないことで、残念ながら流れてしまった。

もう一つは、隣国で行われるパーマカルチャーのセミナーにボランティアとして参加する、というもの。

これは、瞑想を断念した後に、降って沸いた話しで、非常に惹かれたものの、急に学校を続けて休むことが躊躇され、残念ながら辞退することになった。

そういう訳で、3度目の正直よろしく、この話が浮上した時、”あ、今度こそ、本物かも。”と直感的に思ったのである。

だが、久しぶりにプロフェッショナルな日本人の方々と仕事をするに当たって、こんな災害に見舞われることになろうとは、もちろん予想だにしなかった。

もし、瞑想しに行く事にしていたら、フライトの延期が出来ないか、真っ先に代理店に問い合わせていたと思う。

パーマカルチャーにしても同じことで、理想の空間にいながら、現実に引き戻されて、情報もろくに入らないジャングルの中、家族は、友人は大丈夫か、と一人でどれだけ心配したかわからない。

バスは遺跡に到着し、我々3人は自転車に股がって、いち早く写真をとる為に、ツアーから外れ、鬱蒼と覆い茂るジャングルに開かれた細い一本道を、ゆっくりと進んだ。

そして、約5分ほどで大ピラミッドの麓に到着した時、そこに人は皆無で、朝日の射すその遺跡が、いつもより、心なしか神々しくそびえたっているのが、目に映った。

42メートルもある高い標高の遺跡を、一歩一歩、足下を確認しながらゆっくりと登り、頂上に到達した時、眼下には、360度、パノラマ状に広がるジャングルが広がっていた。

しばらく私達はその光景を無言で見つめ、Yさんはただ静かにシャッターを押し続けていた。

私は1200年もの太古に作られて、今も変わらず残っている遺跡の天辺にいて、眼下に広がるジャングルの光景に圧倒されている。

今この瞬間に、地球の裏側では、大勢の人が命を奪われ、家を流されたなんて、まるで嘘のように辺りはしんと静まりかえって、自分が今、ここにこうして存在していることさえが、幻のように感じられる。

当時、ここには5万人以上の人が、このジャングルの中に切り開かれた場所に、大きな集落を作って暮らしていたという。

今は、石造りの建物が残っているのみだけど、当時はこの麓一帯に、木を切って、葉っぱで天井を覆った簡素な家が、いくつも並んでいたのだろう。

通りには、ジャングルに狩りに行く男達が歩き、セノテに水を汲みに行く女達がいて、子供達が家を出たり入ったりして、遊んでいたのかもしれない。

人は今のように、語彙も豊富だったのだろうか?
それとも、必要なことだけを延べ、もっと口数少なかったのだろうか?

当時の人は、今のように感情豊かだったのだろうか?
笑ったり、怒ったり、泣いたり、自己表現していたんだろうか?

想像はいくら出来ても、それを確証するものは何もない。
なぜなら、今、ここには、何も残っていないのだから。

歴史は、たくさんの命を生んでは、消し、栄光を生み、盛衰とともに失くし、今現在も残って、変わらないもののは、何なのだろう?

失くなった命は、一体どこへ行ったのだろう?

風が吹いて、頬を撫で、通り過ぎて行った。

**

我々と同じバスのツアー客一向が、ようやくピラミッドの麓に到着した。
自転車を止めて、狭い階段を、バラバラと人々が登ってくるツアー客達。

ある者は我先にと息を切らせながら、またある者は一歩一歩ゆっくりと進み、登ってくる。

どの顔も好奇心に充ち、頂上に到達すると、ほっと安堵して喜びを露にし、眼下の景色を堪能する。

そう、きっと意味など、どこにもないのだ。

人は皆、人としてこの世に生を授かり、その命を全うし、そして去って行くだけなのだ。

その事実は誰にも平等で、だからこそ、私達は今、この瞬間を大事にしなければならない。

一瞬一瞬が宝物なのだ。普段、あまりにも当たり前すぎて、気付く機会もないのだけれど。

その日、私達がやったことは、与えられた仕事を全うし、岐路に着くことだけだった。
それがその日、私達にできる最大限のことだった。


**

あの日から、3週間が経過した今日、私は変わらず机の前に座り、こうしてパソコンを前に座っている。

多くの命が奪われ、今も不自由な生活を強いられる人が大勢居て、今や問題は原発の是非に取って代わり、毎日多くの議論がなされている。


地震以来、多くの人がインターネットで色んなコメントや討論をしているのを目にした。
自分も何か言いたかったけど、でもどうしても言葉が出て来なかった。

私が出来たただ一つのことは、亡くなった大勢の方の魂が、無事に天国に辿り着けるように、祈る事だけだった。

暗闇の中で救助を待つ人に、一刻も早く、助けが来る事を一心に願うだけだった。

自分に出来る事は本当にちっぽけで、何も出来ない事が本当に苛立たしくて、それでも私は、模索を繰り返しながら、与えられたこの瞬間を生き続けている。


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